何かしらになりきるってどういうことだろう?

今回は「キャラクター」や「作詞家」になりきるってどんな場合?
みたいな話を書きます。本題に行くまで長いです。

というわけで、こんばんは。文学作品について考える、実に面白い。アサヒスーパードライでも飲みながら……

福山雅治は流石に無理がありますね。こんばんは。ちくわです。

たまにフィクションの中のキャラクターなり歴史上の人物なり、あるいは現在生きている有名人なりに自身を重ねることってないでしょうか?

あるいは歌の歌詞なり、なんでも良い。自分自身を他の何かに重ねること、これはかなーり昔からありますし、『古今和歌集』とか「自らを重ねること」を意図して作られているようにも思われます。

さて、そんなわけで、今回は「キャラクターなり実在の人物なりに自身を重ねること」について考えてみようと思います。

あなたの性格を表すとどんな性格だろう?

とか

その理由はどのようなものか?

とか、案外自明なようで自明ではない、聞かれたら聞かれたでやや困るし、言葉にしたら少なからず抜け落ちるものがある、そうした問いについてどう答えるだろう?

とりあえず近いものを挙げて、言語化が難しいものについては一旦無視して説明する。

私がよくやるのはこれであるが、いまいち釈然としない、蟠りのようなものが残る。考えるに、感情なり性格なりというのは、意識的に「演じる」であるとか「振る舞う」とかしない限り、言語化して語ることが困難なように思われる。

というか、言語化した時に初めて「そういった性格なのだ」と追認される、といったほうが正しいように思われる。

追認する、ということはすなわちそこにはタイムラグがあるし、「その時どういった感情だったのか」とか「どういう性格だとあなた自身は思うのか」といった問いに対して正確に「この時はこうだった」と正確に答える事自体、原理的に不可能であろう。

何故ならば、既にその問いの対象となっているもの自体が「痕跡」の形でしか認識し得ないからである。

こうしたことについて、哲学者のジャック・デリダは「差延」という言葉を以て説明した。

さて、ここまで考えると、いよいよ「自分自身が一体どのようなもので、どういったように世界を認識しているのか」といったことがわからなくなる、なんてことはないだろうか?

仮面の告白、ではないが、「普段の体面を取り繕った仮面」を剥ぎ取ったところで、「完全に個としての自分があるのか、あったとしてそれは言語化して明快に語りうるのか」といった疑問は尽きない。

そういった疑問だとか、あるいは「考えれば考えるほどわからない」みたいなことってないだろうか?

私はない。そもそも、日常的にそんなに深く考えてるわけじゃないし、せいぜい「夕飯何にしようかな」くらいしか考えてないが、普段使ってない頭を使うと畢竟「何一つわからない」という事態になりそうになる(結局ならないわけなのであるが)。

というか、結局のところ「よくわかんないし、これ以上考えてもナンセンスだな」で済ます。答えのないものをひたすら追い続けたところで時間の無駄であろうし、「案外自明なようで明確な答えってないよね」くらいの認識でいいと思っている。

ただ、「明確な答えなどない」と「明確な答えなどないが、問題ない範囲で間違いを無視しつつ答えねば話が進まない」といったアンビバレントな問題を調停せねばならない。

となった時に私の場合、「昔の人はどうやってたのだろう」とか考えてみる。「近代的自我」とかよりも昔の話を引っ張ってくることになるのだが、後ほど回収するのでご承知おき願いたい。さて、このあたりからが本題である。

例えば、『源氏物語』において、須磨に下る前の光源氏は「文王の子、武王の弟」と口にする。『史記』の周公旦の故事を踏まえてのことである。こちらは物語上での人物であるが、女房日記である『とはずがたり』では登場人物の見立て自体が『源氏物語』である。

あるいは、その他詩歌関係であれば、本歌取りなんかがそれである。

すなわち、そのタイミングでの認識に即した古典に同化する形で自身の感情なり性格なりを描出していた、といえる。

こうした「近代的自我」以前の人々の記録を見るに、言葉をとりあえず当てはめて追認するというよりはむしろ、キャラクターに自身を擬えることによって世界を解釈する、といったほうが正しいように思われる。

さて、近代においては多分こうした描写は古典ほど多くない。というよりもむしろ、そうした振る舞い自体が奇異に映るのかもしれない。

三島由紀夫の文言で次のようなものがある。

「類型的であることは、ある場合、個性的であることよりも強烈である。」

つまり、「誰しもが知っているキャラクターや歌詞など(≒類型的なもの)に近ければ近いほど、浮いて見える」といった次第である。さらに、意識的にやっているのが露呈してしまえば、それはそれで「痛々しい人」であるわけだ。

そして多分、多くの場合我々は、心内では「このキャラクター(ないし人物)みたいだな」とか「あいみょんのこの歌の歌詞の気分なう」とか「消してリライトしたい」とか考えることはあっても、積極的にそのキャラクターや作者に自分の認識を寄せるような、ある種同化ともいえるような行為はしない。

ただ、多分同化はしないまでも「ここは似ている」みたいなことでそのことに限り「〜のようだ」で形容するし、それの寄せ集めのような形で一応の統一性のある何かしらを作り出す、といえるように思われる。

その「統一性のある何かしら」のことを「アイデンティティ」っていうのかなぁ、とふと思った次第である。



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