歴史を見る目〜「関ヶ原の戦い」の新解釈
今日9月15日は「関ヶ原の戦い」が起こった日です。手元にある高校の日本史の教科書では、そのことについてこのように記述されています。
五奉行の一人で豊臣政権を存続させようとする石田三成と家康との対立が表面化し、1600(慶長)5年、三成は五大老の一人毛利輝元を盟主にして兵をあげた(西軍)。対するのは家康と彼に従う福島正則、黒田長政らの諸大名(東軍)で、両者は関ヶ原で激突した(関ヶ原の戦い)。
(改訂版 詳説日本史 山川出版社 2009年3月5日発行)
関ヶ原の戦いは、大河ドラマや歴史小説で何度も繰り返し描かれてきましたが、それらを娯楽として楽しみながら、どこか「腑に落ちない」感じが残ることがあります。例えば上記の記述を見ると、家康に従った諸大名として福島正則、黒田長政の名前が挙がっていますが、彼らは豊臣恩顧の武将で家康と主従の関係にはありません。なぜ本多氏、榊原氏など家康の重臣が中心にならなかったのでしょうか。
敗北した三成が自害せず逃亡したことも不思議ですし、勝利した徳川家康がその後完全に天下を掌握するのに15年もかかっていることにも引っかかりを感じます。
そんな中、おなじみの「関ヶ原」の信憑性について一次史料をもとに考察し、新解釈を試みる本に出会い、手に取ってみました。白峰旬著『関ヶ原合戦の真実~脚色された天下分け目の戦い』(2014年 宮帯出版社)です。
本書では、関ヶ原の戦いについて関係史料を再検討し、一次資料と二次資料を峻別しつつ、本当の関ヶ原はどんな戦いだったかを明らかにしようとしています。
その詳細については本書をひもといていただくことにして、興味深く感じたことをお分かちしたいと思います。
関ヶ原の戦いについては、実際に参戦した人や同時代人の残した文書に比べ、年代が下っていくごとに記述が詳細になり芝居がかってくることが分かります。それは例えばウィキペディアなどネット百科でしばしば起こる編集合戦によく似ています。自分の都合の良い情報や解釈を広めたい、という意図があるのです。(写真は関ヶ原、大谷吉継の陣地から望む松尾山、小早川秀秋陣地)
もう一つ、心に留まったのは、関ヶ原の戦いについての記述に脚色が増えていくのは、戦いから70年余りが経過してからだということです。実際に関ヶ原を経験した第一世代が世を去り、言い伝えが一人歩きし始めたことによるのでしょう。また徳川政権の安定とともに、徳川家に阿(おもね)るために話を「盛る」ということが行われたこともあったかもしれません。
今の日本でも、戦後70年余りが経過する中で、似たようなことが起こり始めているように思います。しかし、やはり自分たちの信じたい歴史ではなく、歴史的事実に根ざした複数の視座を持ちながら、この国を見つめていたいものです。過去を学ぶことでしか、将来を見通すことはできないのですから。
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