震災遺構/旧南三陸町防災庁舎

画像1 ここであの日起こったことに思いをはせると、胸に迫ってくるものがありました。
画像2 道の駅さんさん三陸の一角に、南三陸町の中心部、志津川地区の復興まちづくり計画についての説明板がありました。震災で町全体で建物被害が3321戸、死者・行方不明者は831人にのぼり、中心市街地は壊滅的な被害を受けました。
画像3 市街地のかさ上げ、高台移転が進められている様子がわかります。
画像4 これは八幡川というかわ。道路の向こうに、先ほど見学した震災遺構・高野会館が見えます。
画像5 今、建物はほとんどありませんが、もともとはたくさんの建物が密集する市街地でした。
画像6 橋を渡ると、南三陸町震災復興祈念公園です。
画像7 震災遺構として、町の防災庁舎が残されています。向こうに見える高野会館、屋上まで水に浸かりましがた、その建物より明らかに低いことがわかります。
画像8 当初、気象庁から発表された大津波警報の高さ予測は6メートルでした。地震後、災害対策本部が設置され動き出していた防災庁舎では、2階の放送室から、職員2人が防災無線で避難を呼びかけていました。その最中、津波の到達予想の高さが10メートルに引き上げられました。庁舎にいたおよそ60人の職員と町長は、高さ12メートルの屋上へ避難しましたが・・・
画像9 襲ってきたのは15メートルを超える津波でした。屋上にいた職員らは必死に手すりなどにしがみついていましたが、繰り返し襲ってくる津波に流され、助かったのは町長をふくめわずか10人でした。
画像10 防災対策庁舎が津波にのまれたこと、最後まで防災無線で町民に避難を呼びかけながら命を落とした女性職員、屋上のアンテナにしがみついて助かった町長、というニュースに大変なインパクトがあり、最も印象に残っていた被災地です。ただ、その日の出来事をまとめた「河北新報」の「あの日、防災庁舎で」という特集記事によれば、アンテナにしがみついていたのは町長ではなく、別の職員2人でした。
画像11 記事を読むと、津波にもまれながら総務課長が町長に「町長、これ夢だよね」と話しかけた、とあり、そのあまりにも現実離れした光景に呆然とする姿に圧倒されます。津波の勢いで、町長は肋骨の骨が折れたそうです。この日も、献花台には多くの花が手向けられていました。 この防災庁舎の震災時の様子についての記事を 下に紹介しておきます。 「あの日、防災庁舎で」(1)〜(8) https://kahoku.news/articles/20210222khn000015.html
画像12 この防災庁舎は解体か、保存かで大きく揺れたのち、2013年に一旦、遺族への配慮などから解体が決まったものの、2年後の2015年に、20年間の期間県有化されることになったそうです。
画像13 公園の中央、小高くなった丘の上には震災で犠牲になった町民の方々の名簿が安置されているそうです。現代の城跡、古墳のようだな、と思いました。痛ましい姿ですが、こうして遺構として残って視覚化されるからこそ、伝わるものがあるとかんじました。
画像14 道の駅方向へ戻ります。川にかけられた橋のデザインがとても洒落ていました。三つの通路があり、真ん中は吊り橋のようにゆるやかにたわんだような形状です。
画像15 この川が流れ込む志津川湾はラムサール条約の登録湿地になっており、絶滅危惧種のコクガンが越冬のために北極圏からやってくるそうです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?