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読書録/偽書が揺るがせた日本史

◼️偽書が揺るがせた日本史 原田実著 山川出版社(2020)

 江戸時代後期に「椿井文書」と呼ばれる一連の偽書を量産した椿井政隆の事跡をおった本、「椿井文書 日本最大級の偽文書」を読んでその感想をツイッターに投稿したところ、話題が「モーセの墓」などトンデモ史跡に広がった。その折、本書の著者である原田実さんからリプライをいただき、トンデモ史跡のもととなった日ユ同祖論などについて追ったご自身の著書をご紹介いただいた。そんなところから興味を持ち、手に取ったのがこの本である。

 日ユ同祖論がなんとなくうさんくさいことは感じていたが、それにもまして興味深いのは、いまや偽書の代表的存在といってもいい「武功夜話」である。20代の頃だから今から30年ほど前になるが、津本陽の小説「下天は夢か」を読んで織田信長にどっぷりハマった私は、その小説の史料として、津本陽をはじめ堺屋太一や遠藤周作などが信長小説の下敷きとした「武功夜話」については、そのものは手に取ったことはないにしろ、すっかり史実と信じていたからである。
 それが、ウィキペディアなどで情報を得られるようになり、それが偽書の疑いをかけられていることを知り衝撃を受けた。なぜ、そうとは考えず、貴重な史料として流布してしまったのか、また、そうした例が他にもあるとすれば、その背後に一体どんな人の心理が働いているのか、知りたいと思った。

 本書では、古代から近代まで、私たちの日本史の知識や地域観光、歴史観にまで影響を及ぼした数多くの「偽書」が紹介されている。驚いたのは、一時は教科書に掲載されていたり(「慶安の御触書)」、名言として広く流布されているものがあることで、「人の一生は重荷を負うて遠き道をゆくが5年・・・」ではじまる、徳川家康の御遺訓もその一つだというのである。私はこの御遺訓を、徳川家康の霊廟のある久能山東照宮を訪れた時に知ったので、それが「偽書」と知って二度びっくりだったが、なんとなく、「家康ってこんなこと言い残すかなあ」・・・と腑に落ちない印象があったので、妙に納得するところがあった。

 沢田源内という、近江源氏の雄、六角氏の末裔を名乗る偽書職人がいたことにも驚きを禁じ得なかった。自らを佐々木氏郷と名乗り、織田信長に敗れた後も六角氏は近江で勢力を保っていた、という説を書き残し、偽の系図づくりに励んだという。「和論語」という鎌倉時代に編纂されたとされる教訓書には、源内の「ご先祖」とされる人物の活躍が描かれているが、それ自体が源内の手による偽書だというのだ。今でいう架空戦記のようなものだろうか、源内さんは鬱憤が晴れて大いに意気が揚がったがろうが、後世の者たちにとっては大迷惑である。

 このほか、漢字が伝わる以前に日本に独自の文字があったとする「神代文字」、日本書紀の記す天皇の系図の空白を埋める「超古代史」、古代津軽地方に知られざる王国があったとする「東日流外三郡誌」、日ユ同祖論なども取り込みながら「モーセの墓」「キリストの墓」などの珍スポットを生み出した「竹内文書」など本書には様々な偽書が登場する。「なぜ、その歴史がこれまで知られずにきたのか」という問題については、ときの権力者から弾圧を受け隠蔽された、というお定まりのパターンがあることや、なかには「パロディ」として創作されたものが真実と受け止められてしまったパターンもあることなどが明かされ、噴飯ものと思えた「偽書」の存在が、実は身近で、しかも多くの人にとって真贋を見極めるのが実は難しいものであることを、思い知らされた。

 こうした偽書が受け入れられる背景には、まず、偽書の扱う「知られざる史実」というトピックそものもがセンセーショナルで興味を引くものであることがある。歴史の空白をうまく突いてくるのである。そうすると、皆はまだ知らないが自分は真実を知っている、というある種の優越感を読む人にもたらす。しかし、そもそも偽書は創作物であるだけに、実際の歴史との間に数々の矛盾を生じさせる。そこに気づけないところに、歴史的な知識の不足であったり、批判的思考をする習慣がないなど、個々の受け手の弱さが見いだせるかもしれない。

 こうした「偽書」が何をもたらしているのかと考えてみると、今はやりの表現でいえば、過去の歴史を用いた「マウンティング」ではないかと思えてならなかった。自分や自分の属する地域、国や民族が「これだけ古い歴史を持っていた」ということで、周囲に対する優越感が生じ、自分が特別な存在に思える、ということがあるのではないか。偽書を創作し、受け入れる側双方に、ある種の「劣等感」があることの裏返しとも取れる。

 だが、歴史とは過去に人間社会がどのような歩みをなし、変遷をとげてきたかの記録であって、それ自体には優劣はない。例えば文字を持たない民族が、文字を作り出した民族より劣っているのか、といえばそんなことはない。1000年続いた王朝と、200年前に建国された国とで「長さ」という尺度で優劣が決まるかといえば、そんなことはないだろう。ただ、歴史はプロセスを示しているにすぎない、ともいえるが、それを受け止める人間の側に、それをもって自分を優位に立たせたいという欲望があるのだ。

 近年ベストセラーになった、ジャレド・ダイヤモンドの「銃・病原菌・鉄」では文明の発達にもっとも大きな影響を及ぼしたのは人のいた「場所」、地理的条件であることではないか、と問いかけ、私にはとても新鮮だった。この論からすれば、もし日本列島が中国大陸や朝鮮半島などから、手漕ぎの舟で行くには「遠すぎる」距離にあったとしたら、日本は最新テクノロジーとジャポネスクが融合したエキセントリックな国ではなく、狩猟と採集を基盤にした暮らしを続ける民族として存在していたかもしれない。だが、現実はそうではなかった。

 「偽書」を知ることは、歴史ではなく歴史を扱う「人」を見ることだと思う。後世に誇れる「人」として私たちが足跡を残すためには、マウンティングなどという器の小さなもののすることは横に置き、真摯に過去を見てよりよい未来を作るために役立てることだと感じた。

ヘッダー写真は、青森県新郷村にある「キリストの墓」。偽書である「竹内文書」の記述をもとに作られた観光スポット(写真はウィキペディアより)
http://www.vill.shingo.aomori.jp/sight/sight_main/kankou/sight-christ/

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