震災遺構/石巻市立大川小学校(2)

画像1 2021年7月に一般公開された震災遺構・大川小学校の大川震災伝承館です。
画像2 大川小学校のある北上川河口地域の模型。上のほうに、来るときに見えた鉄橋があります。学校はそのすぐ近くです。
画像3 残された一輪車。
画像4 津波に襲われた、午後3時37分で止まった時計。
画像5 上が震災前、下が震災後およそ1ヶ月の写真です。学校周辺は壊滅状態です。
画像6 橋の手前左側の集落は壊滅状態となりました。現在、震災遺構となった大川小学校周辺にはまったく建物はありませんが、もともとは民家がたくさんありました。
画像7 河口付近の集落は島のようになってしまったそうです。
画像8 震災後の学校内部の様子がわかる写真も展示されていました。
画像9 地震が発生したのは午後2時46分。津波が到達したのは午後3時37分。およそ50分の時間があり、避難するには十分だったのです。
画像10 地震発生から6分後に大津波警報が知らされ、迎えにきた保護者が車のラジオで知った6メートルの津波という情報を教員に知らせ「山に逃げて」と呼びかける。子供たちも「こんなところで死んでたまるか」「山へ逃げよう」などと言っていた、しかし子供たちは校庭に留め置かれ、津波が堤防を越えて流れ込んできたあと、鉄橋のある三角地点をめざして避難を始めたという・・・
画像11 校舎2階の床は、津波の圧力で持ち上げられてしまっていました。
画像12 アッセンブリーホールの内部。
画像13 事故に至る経緯がまとめられていますが、なぜ山へ逃げなかったか、避難が遅れたのかということについては言及されていません。
画像14 震災後に事故の検証が行われましたが、事実調査に一定の限界がある、などとまとめられ、真実が明らかになることはありませんでした。2014年、大川小学校児童の遺族19家族が宮城県と石巻市を提訴し、2019年、組織的過失を認めた控訴審判決が確定しました。
画像15 これは、遺族の方が代表を務める「小さな命の意味を考える会」がまとめた冊子です。震災当日から事故までの経緯と、そこから学ぶべき教訓、そして震災後の教育委員会の対応や事故検証委員会のずさんな調査、訴訟に至った経緯や訴訟内容について、まとめられており、行政側がまとめたであろう展示のあいまいにした部分を伝えるものとなっています。
画像16 見学を終えて、問題の、児童たちがめざしたという避難場所を通りました。鉄橋の渡り口、少し高くなったところですが、高さはあの校舎の2階とほぼ同じほどしかありません。あの日の大川小学校には命を救うための「時間・情報・手段」が揃っていた、だが「判断と行動がなかった」と、冊子の中で訴えられていたのが強く心に響ました。
画像17 鉄橋を渡ります。展示の写真で見たように、橋は津波で途中から流されてしまいました。
画像18 途中から、鉄骨の塗装の色が変わります。
画像19 色の変わった部分、流されたあと新しくなったところです。
画像20 橋を渡って対岸へ。川の向こうに見える太平洋は穏やかでした。

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