震災遺構/石巻市立大川小学校(1)

画像1 2021年7月に一般公開された震災遺構・大川小学校を訪れました。
画像2 石巻市を流れる、北上川沿いを河口に向かって走っています。
画像3 鉄橋が見えました。真ん中より左側の塗装の色が新しいのがわかかります。津波で流されたようです。
画像4 震災遺構として残されている、大川小学校はもうすぐです。
画像5 2018年に閉校となりました。道沿いには、まだ交通安全標語の看板が残されています。
画像6 東日本大震災の際、津波にのまれた石巻市立大川小学校。2021年7月から、震災遺構として一般公開が始まりました。
画像7 敷地に入ってすぐのところに、献花台があります。学校というと四角い建物というイメージですが、大川小学校は曲線を多用したとてもモダンな建物でした。正面の丸い建物はアッセンブリーホールと呼ばれた多目的室でした。
画像8 全校生徒108名のうち、地震発生後も学校にいた78名中74名と、教員11名中10名が命を落としました。生存した卒業生が、中学3年生のとき「この校舎を残して何があったのかを伝えるべき」と提案したことをきっかけに、保存に向けて動き出したそうです。
画像9 倒れた石碑には、海抜1メートル12センチと記されています。
画像10 円形の平屋部分は、1、2年生の教室でした。
画像11 閉校記念碑に刻まれた校歌。歌っていた子供たちは、まさかこんな未来が訪れるとは思ってもみなかったことでしょう。
画像12 破壊のすさまじさを感じます。
画像13 平屋の教室は、中庭に面していました。
画像14 天井の抜け落ちた教室。
画像15 奥に見える2階建校舎には、3年生から6年生の教室がありました。
画像16 奥に見える2階建校舎には、3年生から6年生の教室がありました。
画像17 破壊は2階にまで及んでいました。
画像18 一輪車で遊んだ中庭。ほとんどの子供たちが一輪車に乗れたそうです。
画像19 校舎についての詳しい説明があります。
画像20 設計したのは東京の建築家、北澤興一さんという人。今までにない学校建築を、と依頼されたそうです。建築家として津波は想定しておらず、行政からも要望はなかったといいます。後悔が大きく、設計者であることを震災後5年の間名乗ることができなかったそうです。
画像21 渡り廊下も倒されていました。
画像22 根元から、ねじ曲げられたようになっています。
画像23 大川小学校は北上川の河口から4キロほど川上にありましたが、13メートルの高さで河口の追波湾を襲った津波は、すさまじい勢いで川を遡上してきました。
画像24 渡り廊下の先にあった、体育館。
画像25 今は見る影もなく破壊されています。
画像26 これは、野外ステージだったところです。
画像27 卒業制作の絵が残されています。
画像28 ここを訪れて衝撃を受けたことの一つは、校庭のすぐ裏に山があって、逃げようと思えばすぐに高いところへ逃げられたことです。なぜ、山へ逃げなかったのか・・・いいえ、山へ避難させずに校庭に子供たちを留めたままにしたのか。
画像29 「世界が全体に幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」子供たちが描いた卒業制作の絵に添えられた、宮沢賢治の言葉が心に刺さります。
画像30 卒業した子供たちの訴えで保存が決まった大川小学校。設計者の北澤さんも、その保存に協力したそうです。(2)へつづく。

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