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OH!へんろ。親子の88か所巡り(83番札所):神毫山 一宮寺 (香川県)

わたしが、子どもたちと決めた今回のお遍路ルールは一つだけ。納経所で御朱印をいただくのは子どもたちの役割ということ。ちゃんと挨拶をして、御朱印をお願いし、最後はしっかり御礼をする、です。

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今日の煩悩:

近代的な家族観には、その構成員が対称的で、例えば、親と子供の間に非対称性のようなものがあってはならん(無理ですけどね)という雰囲気があります。近代的な個で形成され、一種の契約社会のような仕組みが理想とされているのかもしれません。

親子関係に契約社会が採用されると、子どもとしての義務を果たせば、それに相応しい扱いするという「条件付き」の愛情ということも理屈としてはあるわけです。

ただですね、子どもの成熟を支援するという親の役割から考えますと、「条件付きの愛情」では駄目な場合があるのですね。だって、条件付きというのはある種の契約関係ですから。「いい子に塾に通い、親の要求に沿った結果を出す限りにおいて子どもと認める」とかやったら、子どもはぐれるじゃないですか。

親子関係はおそらく、ギブ&テイクではなく、ギブ&ギブなんですね。ただ、子どもにギブギブしていると、(お金じゃない)報酬を受け取れるので純粋にギブ&ギブかというとわかりませんが。親分子分関係も実は似たようなところがあります。

近代においては、すべてのものについて「計算可能性」を高めることが便利なわけです。個別化・個人化することで算数の計算が可能になる。計画も立てやすい。システム化にも順応できるし、コンピュータにも馴染みやすい。世の中すっきりわかりやすい。

しかしですね、個人主義化が進み、システム化が進み、計算可能性が高まり、損得勘定が賢さの基準になると「しょうがない、一肌脱ごうか」という人がいなくなってくる。損得勘定で言えば(努力に見合わない)「損な役回り」であることが結構あるわけです。本当の親分肌の人はいなくなります。

契約社会の中では「まあ、自分がやらなくても良い」というものは「やらない方が良い」感じになっている。余計なことをすれば、痛い目を見るかもしれないし、逆恨みされるかもしれないし。それに、やらなくても咎められないわけですから。

それでも、「それは自分がやらなきゃいけないんじゃないか」「自分がやれば片付くな」と感じて、自分の役割としてやってしまう。義務感を非対称に多く感じる人が、必要な場所もあるのですな。それが、親分でしょう。

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御詠歌:

 讃岐一宮の御前に仰ぎ来て 神の心を誰かしら言ふ

本尊:

聖観世音菩薩

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創建:

大宝年間(701〜704)

真言:

おん あろりきゃ そわか

歴史:

奈良仏教の興隆の礎を築いた義淵僧正が開創し、法相宗の寺院として行基菩薩らを輩出しました。和同年間、行基菩薩が堂宇を修復し、神毫山一宮寺に改名されました。大同年間に弘法大師が訪れ、聖観世音菩薩を彫造し、伽藍の再興にあたり、真言宗に改宗されました。

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所在地:

香川県高松市一宮町607

駐車場:

あり(無料)

公式HP:

カフェ:

本当は77番札所、道隆寺(多度津)に参拝する時に行こうと思っていたのですが、まあいいじゃん。カフェ:哲学屋(Tetsugakuya)さんです。

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カフェは濃いめのパンチある「ハンナ・アーレントの朝」を選びました。

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古い銀行の建物を利用していて、銀行のカウンターがたぶんそのまま使われています。

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