見出し画像

楽しそうに勉強や研究やっている姿を見ると、こちらまでポジティブな気持ちになる。💛

はじめに

日本では、なんとなく、悲壮感をもって勉強や研究を頑張っている様子が美徳のような雰囲気があります(本当にそうかはわかりません)。でも、やはり勉強や研究している姿が「楽しそうだな」と映ることは、周囲の人たちにもポジティブなメッセージを与えるんじゃないかなと思います。

私は自分自身が経済的に豊かな状況ではなかった経験から、若いときには開発途上国の貧困や教育課題について(眉間にしわを寄せて)学んでいましたが、開発途上国に7年くらい住む経験をしてみるとですね、当事者の人たちも(状況や程度によって違うと思いますが)必ずしも不幸には見えなかったりするもので、それに彼らも悲壮感をもって打ち込むだけでなく、(眉間にしわを寄せない人たちと)楽しく勉強や仕事をしたいと思っているわけです。

ご機嫌に振る舞うことも大切

根深い闇や緊急性の高い社会問題もあるし、そうした課題に命がけで取り組む姿はもちろん尊敬できることですが、同時に(大変さも含めた)楽しさがある学びや研究の姿が見えるようになるといいなと思います。

何に書いてあったか全く忘れてしまいましたが、私が20代の時に読んだ本のなかで、晩年の勝海舟が坂本龍馬を回想しながら、「なんとも言えない楽しそうな顔をするんだよね。そういう姿を見たら、もっと喜ばせたいと思ってしまう。得なやつだね」というような話をしていました。つい、プロジェクトの実現を支援したくなっちゃう思いにさせるというのも、一つの才能だと思います。

負の感情を生む当事者性は時に危険

社会問題に当事者意識や正義感で取り組んでいる学びや研究の中には、対象者のためになる素晴らしい取組もある一方で、一見対象者のためを標榜しながら、(アンコンシャスである場合もあるのですが)どう見ても自分の負の感情を燃料にしながら、自分の為にやっているよなというものも見受けられます。それもありだとは思うのですが、彼らがバリバリと取り組むためには「燃料となる負の感情」が必須なので、問題が快方に向かうと研究や物書きが出来なくなってしまう人もいるようです。

そういうタイプの人が、常に「負の感情」を探し求めていると、顔はいつも(眉間にしわを寄せて、苦虫をかんだような)不満な表情になってしまいます。また、自分を正義や正しさの側において「自分は差別を受けている側である」「周りはわかっていない」「(自分ではなく)周囲の意識を変えなくては」という道を辿ってしまう場合があるようです。これは場合によっては、(図らずも)周囲の人たちを貶めてしまう危険があります。

このような感じの講演会に参加したことがあるのですが、その講演会には、「内容について熟知し、賛同(正しさを確認)するために参加する人」「内容について少ししか知らないけれど、もともと賛同するために来る人」「だれかに頼まれて参加した人」、わずかですが「たまたま通りかかった人」なのだろうなという人がいたように思います。

つまり、この講演会には、初めて学ぶ人ではなく、既に自分が内容について関心が高いあるいは賛同している人たちが集まっていたように思われます。そして、主催側が「この人たちは意識を変える必要がある」とターゲットにすべき人が講演会の会場に現れることはなかなか難しい雰囲気でした。

参加者は自分たちも正しい側にいることを認知して参加しているようです。よく考えれば、あたり前のことで、彼らは「正しい内容」と一緒に、以下のようなメッセージをアンコンシャスに送っているわけです。

自分たちは何が正しいかが分かっている、その立場から見て「何もわかっていない人」に対して、「アンコンシャス・バイアスというのがあって、お前の目はそもそも曇っている。だから、私たちの言うことが理解できないのだ。まず、これを読んで、この話をよく聞いて、私たちの『視点』を学びなさい」と。

このような講演会には、よほど体調が良くないと参加できません(体調が良くても参加したくないですけど)。さらに、「負の感情」ばかりを燃料とすると、パワーアップのためには「負の感情」の燃料を自家生産する必要さえ出てくるのじゃないかなとも心配になります。つまり、自分たちがもっと燃料を得られるように、あえて周囲の理解が得られない言動をしたり、攻撃的になったりして「わからずやめー」と「負の感情」を盛り上げるという手段です。

おわりに

いろいろな人が暮らす社会です。社会に働きかけようとするときにはその働きかけが「何をゴールにしようとしているか」を考えることは大切ですね。「自分たちの正当性が認められ賞賛されたい」「やはり君たちの言うことが正しかったね。脱帽だ」と言われたい(本人たちは、きっと、「そんなものはほしくありません」というでしょうが)ということをゴールとしているのか、状況を改善するために協働しようとすることをゴールとするのか。もし、後者のようなゴールを設定するならば、今とは別のアプローチを考えていかなくてはいけないのかもしれません。上機嫌アプローチがいいんじゃないかな。

おまけ

以下は、たまたま、私が「楽しそう」と思ったというだけの動画で、自分用です(笑)。

私は数学が苦手なほうですが「数学楽しそうだな、すこし、数学で遊んでみようかな」と思いました。というか、楽しんでる人の表情を見るのはいいですね。

英語もわざわざ勉強するのは時に苦痛かもしれないけれど、仲間とゲームで協力するためのツールと考えれば、「恥ずかしい」「文法間違っている」とかよりも、「相手に伝えるにはどう言ったらいいかな」の気持ちになるもんね。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?