Q. nF/F って見にくくない? なんで変えないの?

現代の日本語の声調に関する理論は、今から約130年前 (1892-1893) の山田美妙『日本大辞書』が嚆矢の一つでしょう。その後、佐久間鼎の「三段観」、宮田幸一、続く川上蓁らによるいわゆる「方向観」の提案、それをきっかけとした方向観と「段階観」の理論的対立など、さまざまな経緯があって発展してきました。この130年間、基本的には段階声調の理論をベースに日本語の声調理論は発展してきています。(誤解されやすいと思いますが、いわゆる方向観も基本的には段階声調に関する理論です。)

段階声調の理論は、モーラなどの言語単位に「高さ」が割り当てられるという理論です。最も簡単なモデルの一つが日本語のいわゆる二段階観(先述の「段階観」のバリエーションの一つ)であり、この場合、日本語のモーラについて、一つ一つのモーラにL(低い)またはH(高い)という段階的な声調が割り当てられます。段階声調のモデルで記述される言語は、日本語以外では、ヨルバ語などのアフリカの言語が有名です。

なお、こうした経緯は、後述の児玉氏の論文にしっかり書いてあるので、より詳しくはそちらを直接参照してください。

日本語の曲線声調理論は、こうした状況の中、2008年に児玉望教授によって発表された論文「曲線声調と日本語韻律構造」(http://lg.let.kumamoto-u.ac.jp/ariake/08-01.pdf)によって示された革新的な新理論です。日本語の曲線声調理論では、モーラ内のピッチ変動(曲線声調)に着目し、発話のピッチ形はその曲線声調の連続として示されます。

曲線声調は、日本語に適用する理論こそ新しいですが、伝統的に曲線声調で記述されてきた言語は、中国語などがあります。

この理論は、まだ新しい(驚かれるかもしれませんが、2008年はまだ新しいです)ため、主流とはなっていませんが、第三者である私が勝手に細々と宣伝を続けた結果(?)、理解者が現れ始めています。

戦後の数十年にわたる日本語の研究の帰結として、モーラの高さに基づいて語形を論じていたことがそもそも間違いだったのであり、少なくとも東京方言を含む一部の変種は、曲線声調理論でないと正しくモデル化できないということが、ほぼ疑いの余地なく明らかになったと私は考えています。

さて、日本語の曲線声調理論では、曲線声調を表す記号として R, Lv, F, nF という主に4つの記号を使い分けます。特に、このうち nF と F の二つが頻用されます。nF と F だけを使えば事足りることも珍しくなく、そのような場合、この記法は nF/F 記法などと呼ばれることがあります。

nF/F 記法では、ピッチ形を二つの記号 nF と F の連続として表すため、長いととんでもない形になり、非常に見づらい、ということが、たびたび指摘されます。この記事は、「じゃあ、なんで変えないの?」という話をします。

変えない理由いくつか

ここに挙げるのはあくまで私が個人として nF/F を現在まで使い続けている理由です。私以外の人が同じ記法を使うあるいは使わない理由は私にはわかりません。なお、本文に示す通り、そもそも置き換えの提案が行われている状況にはないので、特定の記法の使用に反対する理由を述べるわけではありません。積極的な「変えない理由」があるわけではありません

記法を変えるのは大変

記法を変えるのは大変です。先行研究と同じ記法を使っていれば、基本的には引用すればそれで記法の説明が済みます。先行研究のデータを使用する場合にも書き換える必要がありません。記法を変えてしまうと、どこをどう変えたのかを説明する必要が生じます。データを引用する場合にも記法を書き換えたことを示す記載が必要です。そうでなければ正しく引用していないことになってしまいます。

切迫した理由がない

もちろん、必要があれば新しい記法を考えて、それを使用するということはあります。しかし、nF/F に関しては、そうしなければならない切迫した理由がありません。

過去の論文等を書き換えることはできない

「見にくいから」という理由で記法を変えても、自分で考えた記法がより良いものになる保証はありません。

また、優れた記法を考えることには成功したとしても、そもそも、どうせ参照しなければならない先行研究の記法を変えるのは不可能であり、本質的には見にくさの解決はできません。

古い研究を参照する必要が少なくなるほど画期的な研究を自分が発表すれば話はまた別ですが、もはや記法の話では済まなくなってしまいます。(日本語の曲線声調理論で児玉 2008 http://lg.let.kumamoto-u.ac.jp/ariake/08-01.pdf が最重要文献でなくなることはまだしばらくはないでしょう。)

記法が乱立すると不便

https://xkcd.com/927/

そもそも、何に変えるの?

世の常ですが、「変えるべきか否か」を、具体的な代案なしで問うからよくわからなくなります。優れた代案であればそれを使えばいい。代案が劣っているなら変えない方がいい。「何に」変えるかわからない状態で「変えるべきか」を決めることはできません。

現在、現状よりも優れた記法であると主張されている特定の置き換え候補があり、現状維持派と革新派がいて議論している、というような状況にあるわけではありません。

「過去に提案された他の記法」のところで、過去に使われたことがある関連ないし類似の記法を紹介します。これらは、ひょっとしたら置き換え候補になるかもしれない記法です。しかし、これらの記法は、その時々の文脈において、この用途のためには、これが簡単で良い、と言ったように、特定の目的のために提案されたものであり、nF/F 記法そのものをまるっと全て置き換える(nF/F 記法の使用を完全にやめ、代わりに新しい記法を使う)べきだと主張されたことは、私の知る限りは、ありません。

現在では nF/F は用途が限定的

モーラごとに曲線声調を nF と F の二通りで示し、モーラの連続はそのままこれらの記号を連続させて表示する方式は、実は用途が限定的です。

この記法は、曲線声調の原理そのものを説明するために必要です。

曲線声調の原理を説明する以外の用途としては、発話などの言語形式の音声ないし音韻形式を表記するために使うというものがあります。しかし、曲線声調だけを表すことは必ずしも必要ではなく、多少冗長であっても、目的の形式をローマ字等で表記し、曲線声調の情報もそこに一緒に埋め込んでしまうといったことは可能です。この場合、曲線声調だけを表すスタンドアロンの記号は不要です。

教育ローマ字の理論により、表層の曲線声調の配列を決定する抽象的な素性として「アクセント」を定義し、その「アクセント」の位置を示すことにより、間接的に曲線声調を表示することが可能になりました。この理論の概略は以下の記事でも説明しています。

この方法は、最近の東京外国語大学の研究会でも、黒木邦彦准教授による講演で取り上げていただいたそうで、その講演資料でもほぼ同様の記法が採用されています(https://researchmap.jp/multidatabases/multidatabase_contents/detail/250776/812e21451bacdd4a731f3774752fcd62?frame_id=671207)。

また、同氏によるひつじ書房の連載「ことばのフィールドワーク」においても、やはりほぼ同様の記法が使われています(https://www.hituzi.co.jp/hituzigusa/2024/02/15/satumaben-13/)。

教育ローマ字の最新の資料においては、教育ローマ字自体の説明に教育ローマ字をそのまま使うわけにはいかないため、日本語の発音は基本的にヘボン式ローマ字で示し、通常のヘボン式ローマ字で表示されない情報はリッチテキストを使って表示しています。声調はヘボン式ローマ字では表示されないため、nF 領域にアンダーラインを引くことによって表示しています(https://github.com/NihongoTopics/Kyouro/blob/master/Proposing%20a%20new%20romanization%20system%20of%20Japanese%20(book).pdf)。

このように、モーラごとの声調を直接表示する必要がある場面は実は限定的です。最も重要な用途は曲線声調理論そのものを説明することなので、さまざまな場面で多用することを前提とした議論は実は本筋から外れています。(ただし、曲線声調理論が新しい理論であるという関係上、依然として曲線声調理論そのものを説明する場面が多く、曲線声調理論を理解していないと理解できない上掲の「より進んだ」記法は比較的目にする機会が少ない、というバイアスがあることが考えられます。)

視認性の追求は本質的でない

児玉 (2008) で使われている nF/F は、記号としては極めて素朴なものです。声調として、上昇傾向にあるもの、下降傾向にあるもの、そのどちらでもなく水平に近いものの3種類があり、記号としては、それぞれ英語でそのまま rising, falling, level から、短くするために rising と falling についてはそのまま頭文字を取り R, F とし、level については、おそらく low との混同を避けるために、L ではなく Lv とした。さらに、東京方言と鹿児島方言については、声調が F であるか、F 以外の何か(つまり、RもしくはLv)であるかという二項対立が特に重要な場合があるから、「F でない(= RまたはLvである)」ということを示す記号として、英語の否定接頭辞の non- から、n を接頭辞としてnF を使う、というものです。同論文内では、このように記号の由来を筋道を立てて説明しているわけではないため、これは私の推測に基づいています。こんなことをわざわざ説明する必要はありませんから(記号の意味さえわかればいいのだから)、当然です。

声調の特徴を示す英単語、それを表す頭文字ないし頭文字+1文字、それに否定接頭辞の n です。なんの工夫もありませんが、理論の説明を補助するための記号に複雑な説明が必要だったら本末転倒です。論文の目的は理論を説明することであり、そのためには、記号はわかりやすいことが重要です。視認性はどうでもいいとは思いませんが、R, F, Lv, nF くらいであれば、混同しやすい記号もないため、これ以上の視認性の追求は、かえって本質から逸れてしまうでしょう。

記号をもっと洗練された(工夫した)ものに変えてしまうと、その記号の説明のために結局は素朴な R, F, Lv, nF を持ち出さなければいけなくなるかもしれません。

実は私もちょっと変えてる

R の取り扱い

nF と F だけを使う場合には R は記号としては出てこないので、ちょっと本題から逸れているかもしれませんが、一応関連する話題なので少しだけ取り上げます。

児玉 (2008) では、東京方言のRは原則として p-phrase の冒頭1モーラだけです。教育ローマ字では、音節構造などによってR区間の長さが条件づけられるとしています。

ハイフン

最近は、私はモーラの境界にハイフンを挟むことによって、記号が多数連続した場合の視認性が良くなるようにしています。

段階声調変化

児玉 (2008) では、曲線声調の記号のほかに、段階声調変化の記号として ] と [ が併用されています。このうち、] は、nF に F が後続する場合には必ず挿入されています。(これによって、nF と F が連続する場合の視認性の悪さが抑制されていますが、原著者の意図は不明です。明示的に段階声調変化の記号であると説明されていることから、第一義的に視認性のために挿入したものではないことは明白です。)

nF と後続する F の間に規則的に挿入されることから、余剰的なものであると考え、私は原則としてこの位置にある ] は表記していません。

過去に提案された他の記法

ここでは私以外の人によって使われた記法を説明しているため、どうしても推測が多くなります。

N/F

@sagishi0 さん(「さぎしさん」)と @croquis_kuni さん(先程の黒木氏です)が nF の代わりに N を使う記法を過去に使用されています。

さぎしさんは、押印の研究のために曲線声調理論を応用されている方です。このツイートでは、押印の研究のため、分節音を表す記号列はかなり複雑になっています。このため、曲線声調を表す記号列が別になっているのは自然なことです。すでに複雑な分節音の記号列に、視認性を保ちながらさらに情報を加えるのは難しいからです。

さぎしさんが使っているローマ字表記法では、Lv と R の別に相当する情報は曲線声調専用の記号列とは別にすでに含まれているため、nF が {Lv, R} を意味することはあまり重要ではないのではないかと思います。それよりも、声調の記号が全て1文字で揃っていることのほうが重要なのでしょう。

黒木さんのこのツイートでは、特定の単語の発音が曲線声調理論に基づいた表記法で書かれています。(「教ロ」は教育ローマ字の略称です。)この中で、曲線声調は nF が N で書かれています。これについても、文脈上 Lv と R の区別を説明する必要がないため、文字数が揃い、視認性が良い N で置き換えたのではないかと思います。

また、黒木氏は別のツイートで、デンマーク語への応用に関しても N と F で良いのではないかとの提案をされています。

両氏を含め、誰かが、nF は視認性が悪いから廃止して N に置き換えるべきだ、と主張する可能性はあります。誰かがそのように考えるか否かについて、私は何もいうことはできません。

しかし、いずれにせよ、記法というのは、その場において便利だから使うものであり、何が便利かは場面によって異なります。特定の記法が、ある面で優れているから、他の記法は廃止するべきだ、ということは、簡単に言えることではありません。

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