優しさについて

漠然とした概念について考えることは、これまでの人生の中で多い。
その中で、優しさについて考えることは多いのだが、はっきりとした結論は出せずにいる。
そこで、今までの人生と優しさに対する向き合い方を整理し、自分の人生と優しさを見直したい。

優しさとはなにか、答えを出せずにいる理由は、はっきりとした回答はそもそも存在しないからだと思う。あの人は優しいという言葉は、ある角度から見たら他人に対して甘いことを指しているとも言えるし、厳しさの中に優しさがある、といった表現もあるように、他人に対する態度が全てではないと言える。すなわち、こういう人が優しいという決まりきった正解はない。

個人的な話になるが、通知表に「優しい人」と書かれたことは多い。特段特徴がない人に対する言葉として、「優しい」という表現は当たり障りがなく、どこをどう捉えてもプラスの意味に捉えられる。僕はこのことについて、全く悲観していない。教師という仕事柄一人ひとりの人格に対して寄り添うのは大変難しいことだと思うからだ。ただ、ある時期まで本当に僕は優しかったと思う。

小学3年生の頃、先生が黒板に当てて使う大きな三角定規を落としてしまい、そのはずみでチョークが複数本散らばってしまう出来事があった。
僕は一番前の席に座っていたこともあり、一目散に「大丈夫ですか?」と駆け寄り、チョークを拾ったのだが、僕以外の他の生徒は机に座ったまま、何もしなかったのである。僕は特にこの瞬間何も思わなかったのだが、授業が終わったあとの10分休憩で、「お前、あの先生のこと好きなんじゃないか」とからかわれたのだ。その先生は若い女性の先生だったのでこうしてからかわれることは今考えれば仕方ないことだと思うが、僕はこれを恥と捉えてしまい、その後人に積極的に優しくすることは恥ずかしいことなんだと思ってしまった。

人のことを本当に思いやって手を差し伸べようとしたことは、今までの人生を振り返ってもこの出来事が最後だ。そして、もうあの頃の優しい自分ではない。僕が優しさについて考えるようになったのは、自然に持っていた優しさを失ってしまったことによることなのは、滑稽だと思う。

僕は、ザ・ブルーハーツの「人にやさしく」という曲が好きで、今でのよく聞く曲だが、いつもこの曲に勇気づけられている。
「僕が言ってやる でっかい声で言ってやる 頑張れって言ってやる 聞こえるかい 頑張れ」
この曲を聞く人に向けて与えられる最大限の優しさは、これだと考えた結果なのだと僕は勝手に思っている。

また、この一節の前ではこんな事を言っている。
「人にやさしく してもらえないんだね」
そして別の一節ではこんな歌詞もある。
「期待外れの 言葉を言うときに 心のなかでは 頑張れって言っている 聞こえてほしい あなたにも 頑張れ」
こんなにも優しさはすれ違うのかという、悲哀をこの歌詞に見た気がする。
僕はこの歌詞を「優しさを与えたい人はたくさんいるが、優しさをその人の意図通りには受け取れず、人に優しくしてもらえないと思っている人が多い」と考えている。

では、僕が優しいと思う基準は、多くの人の正解になりうるか。いや、ならないだろう。ただ、僕は僕の基準で優しくありたいと思う。そう思ったときに優しさはエゴなのではないかと思うに至った。

誰かのためを思って、何かをすること、しないことは基本的に人には伝わらないし、残念だけど、人を思いやる心はあまり伝わらない。それでも人に優しくありたいと思うのは、決して見返りを求めたりするものではなく、きっとエゴなんだと思う。

小学3年生のときの僕が見たら、僕に失望するかもしれないが、僕はいま人にやさしくするときには細心の注意を払っている。見返りを求めると自分の心まで傷つけかねない。それでも邪な気持ちが僕の心を蝕むと思う。そんなときには「人にやさしく」を聞いて、優しくありたいと決意できる自分であれば、今日振り返ったことも無駄ではないと思えるだろう。



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