FF7リメイクは、神を、魔晄炉を、そしてFF7を殺す
1997年の発情
1997年、日本はソフビ人形のようなクラウドに発情した。
まだ家電量販店が商店街にあり、ゲームもCD-ROMかカセットの物理媒体で提供された時代である。
当時のブラウン管テレビにはこの『Final Fantasy 7』というタイトルと共に、ソフビ人形のようなクラウドたちが、いやに写実的な背景とのアンビバレントさに違和感を覚えることなく、「発情」した。
これは比喩でも何でもなく、文字通り目を奪われ、今すぐにこれを遊びたいと思ったのである。押し寄せる、耐え難い情熱、これを発情と言わず何と言うのか。
任天堂は1996年に先んじて発売された格闘ゲーム『トバルNo.1』が「『FF7』の有料体験版」と揶揄されたのも、納得してしまう程の熱狂が渦巻いていた。
そしてその期待は、完璧に答えられた。
『FF7』はファイナルファンタジー、いやビデオゲームにもとめてきた人々の「限界」を突き抜けて、自分たちが見たことのない世界を見せ、味わったことのない冒険を歩ませてくれた。
NHKの「ファイナルファンタジー大投票」で歴代2位の評価を得たのは伊達ではない。間違いなく本作はゲームというエンターテイメントの可能性を広げたのである。
あれから23年。
当時熱狂した中学生も今やアラフォーという今になって、あの『FF7』が帰ってくるという。
私は当初の熱狂がまた記憶の奥底から蘇ってくるような気がして、すぐ冷静になった。当時まだスクエアと呼ばれた企業が築いた「神話」の、一体どこにてを入れる余地があっただろうか。
しかも聞けばゲーム本編は「ミッドガル脱出」までのシーケンスしかなく、それでフルプライスになるという。ゲームの価値を価格から推し量ることは無粋と知りながら、強気というよりは傲慢、無謀とでも言えるスクエアエニックスの姿勢に、私は逆に興味が湧いた程だ。
喪失の神話としてのFF7、そして1990年代
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