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「ゲーマー」とは何か ドイツで見てたゲーマーの本質

(8月いっぱいはドイツの取材およびその準備にかかりきりで、公開が月末になってしまい申し訳ございません。)

「ゲーマー」という文化的な集団がある、かのように語られる。

「ゲーミング〇〇」といった高性能のデバイスが販売されたり、そういう分かりやすい事例がなくとも、ソーシャルメディアなんかで「”俺”たちはゲーマーなんだから」とか「ゲーマーならこういう考えを持つべきだ」みたいな同調圧力はすごく感じるし、それはその圧力を常にかけられる自分のような立場がよくわかっている。


先に断っておくと、私は「ゲーマー」という言葉があまり好きでは「なかった」。

何故なら「ゲーマー」という言葉には、以前からかなりホモソーシャル的な暴力性が内包されている。これは男性学的な問題というより(それもないわけではないが)、要するに特定のコミュニティやレイスを名指しすることによって、逆説的に集団で分断を作ろうという何らかの力学が働くということを意味している。

具体的には、ゲーマーという言葉は誰かを肯定したり、受容するというよりも、明らかに否定や排除のニュアンスで使われている。例えば「スマートフォンでツムツムだけ遊んでいます」という人がいたとして、えてして「それは〈ゲーマー〉ではないよね笑」というニュアンスが付随した嘲笑を、幾度となく聞いてきた。実際には多くの場面で、ああいう人はゲーマーだというより、ゲーマーではないという排除性をもってして、ゲーマーを用いる。

だから、私が日本で見てきた「ゲーマー」の集まりは……もちろん海外でも中小規模なスケールにおける「gamer」という呼称は、こういうホモソーシャルを逸脱しきれていない。ゲーセンだろうが、LANパーティだろうが、Twitterだろうが、ゲームの即売会だろうが、そういう排除性が機能する。そして排除性を機能させるわりに、あまり理性的でも生産的でもなくて、限定的な人々の限定的な権力ないし利益を保存する村文化へと収斂していく様をどこでも見た。

独自の文化が築かれるうえで、当然ながら一定の排除性が必要なのはよくわかるし、それ自体は否定しない。ただえてして「ゲーマー」(これはeスポーツとか、インディーゲームとかに縮小してもいいんだけど)というひどく大きなことばを「独占」する力学がはたらいていて、それに乗じられないのである。

そもそも日本において、ゲーマーでない人がむしろ少ない。20年前はいざしれず、現在であれば誰もがスマートフォンを持ち、何らかのゲームを遊んでいる。動画や配信を見るだろうし、芸人やアイドルのゲーム話を聞いて、テレビには任天堂やソニーのCMが流れている。日本社会そのものが既に「ゲーマー的」であるからして、むしろホモソーシャル的な排除をもって「ゲーマー」を規程する必要が生まれたというのは、いささか皮肉であろう。


しかしながら、私は必ずしも「ゲーマー」を嫌っているわけではない。むしろ、ゲーマーとしての自負があり、それを追及していた時のロマンが捨てられないのもまた本音である。

いうまでもなく、ゲームという文化を愛している。インタラクティブに作用するこのデジタルの遊びに、幼いころからずっと夢中だった。自分のアイデンティティはビデオゲームによって大きく築かれ、それによって友を得て、そして今は職業にさえなっている。だからこそ自分がゲーマー……ビデオゲームを愛する者としてのアイデンティティが曖昧模糊なものとなることは、自分自身をも曖昧にしてしまう。そしてアイデンティティとは、他者との繋がり、共同体のかたちによって見出されるものだ。

だが現実的には、さっき述べたようにホモソーシャル的な恣意性を持たせない限り、つまり実態に乖離した権力を持ち込まない限り、「ゲーマー」に実態はない。それはどこまで行っても消費行動のはてにある分類……雑多な消費者の集まりになってしまう。


gamescomで「ゲーマー」を見つける

では、そこにいたゲーマーとはどんな人相をしていたのか。

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