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『CoD:MW』批判 ゲーム媒体で歴史修正主義を”遊ぶ”問題

※2020/01/08 トランプのイラン攻撃をうけて追記

以下の内容は全て、『Call of Duty: Modern Warfare』のネタバレを含む。また「キャンペーン」モードへの批判であり、マルチやCOOPの評価はここでしない。

戦争を取り扱う記事である以上、表記及び画像の中にはショッキングなものも含まれているため、そのこともご了承いただきたい。


『Call of Duty: Modern Warfare』(以下、『CoD:MW』)はクソゲーだ。

「クソゲー」という言葉を用いるのは、無論ゲームを批評する人間として本意ではない。あらゆるゲームにはプロフェッショナルたるクリエイターが熱意と技術を惜しみなく注がれており、いかに自分の好みでなかろうと、それらを一概に「クソ」と呼ぶのは誠意ある批評と呼べない。私自身も『CoD』は初代からナンバリング全てプレイするファンであり、制作陣を尊敬している。

だが、あえて言う。『CoD:MW』はクソゲーである。単にゲームとして面白い、つまらないという問題でなく、ゲームというメディアで決してやってはならないタブーを犯している。即ち、特定の民族や思想による虐殺行為を正当化し、その枠外にある全てを侮辱する、典型的なプロパガンダをゲームで再現してしまった事にある。(シリーズ全体にその傾向にあったが、本作は「ある一線」を越えている)

ビデオゲームにどのようなメッセージを託すか、それは表現の自由である。しかしながら、公共の福祉に反する範囲におけるそれは決して許されない。

ゲームが普遍的なエンタメとなる一方、「ゲーム依存症」がWHOに認定されるなどパブリックな視点を集める現代において、表現する側であるInfinity Ward及びActivision Blizzardの姿勢には疑問が残る。

『CoD:MW』は単につまらない作品というニュアンスの「クソゲー」でなく、今後ビデオゲームという「表現」がリスクを含めたあらゆる可能性を孕んでいることについて、改めて我々ゲーマーが問い糾すべきだという意味を籠めて、「クソゲー」なのである。

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「世界の期待を一身に背負い、為すべきことを為せ。」この言葉の意味とは


思想という化学調味料

本作は元々つまらないゲームである。

というか、元々2003年のPCゲームである初代『Call of Duty』から何一つ成長していない。何なら退化しておる。ある程度シングルプレイのFPSをプレイした人間なら、『CoD』にゲームとしての創意工夫など期待する方が悪いと思うだろう。

前に歩け、右の敵を倒せ、そこで伏せろ、従わなければゲームオーバーだ。

このゲームに意思決定などという概念はなく、仮に言われた通りにしてもなお、目の前の敵すら認識できない味方AIと、逆に目の前で湧くターミネーターのような敵兵によって無残に殺された上、殺されたその場所でリスポンして無限の死を味わうことができる。

それでいて底なしに面白くない、ドローンを操作して敵を倒す等のミニゲームを合間合間に挟むことによって、この20年一切進歩のない拘りのFPSがいかにありがたいかを刷り込んでくれる。要するに、FPSとしてつまらない。

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アイディアは面白いが、ゲームとしては単調なミニゲーム


こうした退屈極まりないゲームプレイはたしかに「クソゲー」の「ク」まで口に出かかるが、とはいえ映像技術はリッチだし全く捨てたものでもない。

だが開発者たちも負い目を感じていたのか。何とかこの退屈なゲームに刺激を加えたかったのかもしれない。

さてここで彼らは何を投入したか。映画にせよ小説にせよ、退屈極まりない娯楽をどうしても楽しませるために必要なもの、それは特定の思想や歴史、神に対する無条件の肯定であり、ひいては狭小な正義の擁立である。

正義の擁立は、娯楽における化学調味料である。自分が信じる最も安直で身近な正義を肯定する物語は、それだけで快楽装置となりえる。

まして、それが暴力によって無条件に肯定されたり、具体的な敵の姿をおちょくったり、自分より無力な第三者の絶賛を浴びせたりすれば、それは天にも昇る心地だ。どんな退屈なエンタメであっても、人によっては「名作」に化けうる。

実際に、かつてこういった娯楽、要はプロパガンダは珍しくもない。

Wikipediaの逸話をコピペしただけの小説であっても、零式艦上戦闘機の雄姿を刻むことで本屋で爆発的に売れた例はまだ6年前の話である。そんな日本軍を心底バカにして成功したマイケル・ベイのような例もあるし、それより古くではヨーロッパ諸国の植民地支配も音楽や文学でしばしば正当化された。

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ウォルト・ディズニー作『総統の顔』 大戦中に作られ、自由の女神を抱擁しヒトラーに果実を投げつける、ごくシンプルなプロパガンダアニメ。
ディズニーは数々のプロパガンダでアメリカの戦闘行動を肯定し、一方ドイツや日本を直接揶揄し続けた。ウォルト自身、アジア人を含めた生粋の人種差別主義者であった。


こうしたプロパガンダの問題は、”消費者”に無尽蔵の快楽を与えるのと引き換えに、その快楽は思考停止と共に排他的・反社会的・暴力的な犠牲を伴う点にある。

万人を恒久的に幸福にできる装置など実在しない。確かにプロパガンダを受容する人間にとって幸福かもしれないが、その人間が目の当たりにする他の人間は往々にして犠牲になる。例えば、「我々が彼の国を侵攻したのは、彼の国が野蛮だからである。」というメッセージを受容することで、「我々」が幸福になっても、その「我々」が「彼の国」に対して何ら寛容や理解を示すことはなくなるだろう。

というより、犠牲を正当化するためにプロパガンダが存在するのかもしれない。それはさながら、麻薬中毒者の多くが貧困や差別など耐え難い苦痛から逃れるために麻薬へ手をのばすのと同じで。

責められたり、自分さえ間違っていると後ろめたく思う歴史があるからこそ、人は却ってそれを正当化する道具を求める。それがどれほど荒唐無稽な表現であろうとも。

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ヒトラーが現代に蘇る、という荒唐無稽な設定を逆手に取った『帰ってきたヒトラー』。映画も小説も傑作。


都合の良いリアリティ、虫のいい倫理観

話を戻すと、このゲームはFPSとしてつまらない。クソゲーとまでは言わないが、つまらない。

そんなつまらないゲームを何とか誤魔化す魔法の粉が、主人公であるCIA(アメリカ)のエージェントと、SAS(イギリス)の兵士が手を組んで、ロシア人とアラブ人をまとめてぶっ殺すという単純明快なプロパガンダだった。

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公式サイトより。どこから突っ込んでいいやら分からないが、少なくともゲーム内の世界線はこうなってるらしい。

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なので正しい表記に修正した。


物語はターバンを巻いた愉快なテロリストが、イギリスのロンドンで化学兵器を使用する所で始まる。大勢の犠牲に対して怒りを抱く「正義の”英語軍”」は、化学兵器の出どころを辿って「ウルジクスタン」なる架空の国家へ辿り着く。そこでは英語軍に付き従う「善きアラブ人」が「悪いアラブ人」と戦っており、彼らと共に悪いアラブ人を爆撃や砲撃で殺戮していると、やがて黒幕はロシアの高官だということが判明する。例によって「善きロシア人」と協力して「悪いロシア人」を殺す。ちゃんちゃん。

とてもわかり易いストーリーである。とにかく、悪い奴らが悪いことをしているから、善い我々が正義の鉄槌を下す、それだけの話だ。具体的には、胸糞なシーンを流して、その後M4で射殺する。このゲームのキャンペーンはひたすらその2つのアプローチのみで構成されている。

このゲームは銃を撃って敵を殺す。その銃も、AKとかM4とかリアルな銃である。現実の戦争やテロにも用いられる銃を使って人を殺すというのは、いささか気分が悪くなるかもしれない。だから殺すべき相手の悪行は全て描くのである。彼らが登場すると3分の1の確立で民間人ユニットが出て、敵の生贄になる。これはいかんとプレイヤーは敵を殺す。そしてプレイヤーは民間人に感謝する。より強い銃を持った人間による三すくみのエコシステムが、プレイヤーに無尽蔵の殺戮を正当化させる。

当然だが、殺す相手にある敵に、同国人、女、子供はいない。そんな奴らを殺すと後味が悪いから、殺すべきは異国人の成人男性どもで統一されている。まるでスーパーに並ぶジャガイモみたいに、同じ大きさの敵がぞろぞろ並んでは殺されに来る。

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SASは激怒した。必ず、かの 邪智暴虐のロシア人を除かなければならぬと決意した。


「この物語には100%の善悪や、白と黒に割り切れない部分があり、複雑な倫理観に基づいています。」とInfinity Wardのクロサキ・テイラー氏は語る。

実際にゲームを遊んでみると、ロシア人は作中で何十人も目の前で民間人を殺すが、アメリカ人は民間人を殺そうと脅すだけ、というえらく片側にだけ都合の良い「戦争の残酷さ」である。

むしろ、この中途半端なリアリティにこそ本作の「醜さ」がある。ロシア人やテロリストは何度も人質を殺したり、盾にするなど「残虐な行為」に出る。一方でアメリカやイギリス兵は決してそんな「残虐な行為」はしないし、しても女子供を脅迫の材料にする程度。仮にプレイヤーが故意にそんなことをすればゲームオーバーになってしまう。

このゲームオーバーというのが「プロパガンダ・ゲーム」として秀逸で、このゲーム的な制約が逆説的に「ルール上でさえ当然、アメリカ兵やイギリス兵は卑劣な行いはしない」と、ゲームをプレイするだけで刷り込まれるようになっている。

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徹底して敵は卑劣であり、また自分が卑劣に手を染めればゲームオーバーになる。プレイヤー一人ひとりがゲームをクリアすることで、米軍英軍の正当性を証明することになる。


無論、アメリカ人でもロシア人でも戦争に犠牲がないわけがない。その証拠に、本作のモデルにもなっているイラク戦争で死亡した民間人は累計500000人にのぼるとナショナル・ジオグラフィックは報道している。このうち最低でも3割の170000人がアメリカ軍の作戦によってもたらされた犠牲である。

(この数字は遺体を確認したもので、アメリカ軍の爆撃を受けて遺体の破片さえ残らないことの方が多いだろうから、実際の犠牲者は何倍にも増えるかもしれない。)

だが本作は徹底してその事実を否定し、ゲーム性によってさえ歪曲する。

これまでの『CoD』でも同様の傾向にあったが、本作はその比ではない。ある種、割り切った非現実味がエンタメとしての保障となっていたのに対し、こちらはなまじ半端に都合の良いリアリティを誇張し、史実の事件や民族を取り扱おうとするあまり、そのエゴイズムは一層顕著になっている。


お前たちが殺した悪人は、お前たち自身だったという「歴史修正主義」

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プロパガンダ臭いのは歴代『CoD』でも珍しくはない。そこで本作『CoD:MW』はマンネリ打破のため、歴代と比べてもかなり現実の場所や歴史を描いていると思しきシーンを描き、「リアリティ」を強調している。

例えば、序盤におけるロンドンのテロは正に今ヨーロッパ各地で起きているテロに被ってくる。ファラら「善きアラブ人」が襲撃されたという「死のハイウェイ」は現実に湾岸戦争で多国籍軍が攻撃した同じ場所が存在する。

中でも名前が「ウルジクスタン」なる架空名に誤魔化されているが、この国はアフガニスタンに酷似している。根拠として、「ホームタウン」というレベルで芥子畑を通るシーンがあることや、マップの地形も切り立った崖が多いことからも、やはり複数のモチーフが合わさったものの中でも、特にアフガニスタンのイメージが強いと思われる。(芥子はコカインの原料であり、アフガニスタンが全世界のうち70%の芥子を生産している)

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作中では、そのウルジクスタンの女性民兵であるファラが、準主人公的として登場する。彼女は20年前にロシア軍の爆撃を受けて両親をなくし、今も祖国を支配するロシア軍に抵抗するためにゲリラを率いているという設定だ。

しかし、我々現実世界のアフガニスタンに「20年前」侵攻し、無辜の民を爆撃で殺し、白燐弾で生きたまま皮膚ごと溶かし、その後20年近くずっと彼らの土地を不法に支配してきたのは誰だったか覚えているだろうか?


ロシア軍?


いや、


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