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「見たいもの」だけが正当化される時代に「文学」は成立するのか

ソーシャルネットワーク全盛の現代社会では、ユーザー1人1人の声がとても「1人」では作り出せない容量で届くようになった。その結果、毎日何かしらが「炎上」している。

この状況は、行政や大企業の問題を早期に発見、批判するデジタルネイティブの民主主義を生み出したとも言えるし、一方で単純に怒りや憎しみを根拠とした「破壊」をただもたらすポピュリズムに過ぎないのではという懸念も、「炎上」を契機にした誹謗中傷に始まる「同調圧力ディストピア」の現代社会では真っ当なものだと思う。

このポピュリズムの時代に、果たして「文学」や「芸術」は果たして持続可能なのだろうか。今の時代、文豪たちが「きちがい」と書いていたと知ればそれだけで憤る人がいるかもしれないし、大体「ドイツに留学した日本人がドイツの美女を妊娠させた上に出世を優先して日本へ帰国、その美女は発狂したまま置き去りにされてしまう」なんて物語が高校国語の教材に使われている(いた?)ことは今も判定が難しい。

上述のように、現代の価値観では多少不愉快な表現を用いていようとも、むしろ不愉快な表現だからこそ(批判的な意識を含め)、「文学」は人間性の底にある凶暴さ、邪悪さ、あるいは美しさ、弱さ等といった諸々を直截に学ぶことができる。それこそ「表現の自由」が求められる理由がある。

だが過去の文豪はともかく、果たして「見たいものだけを見る」ことが倫理的に肯定され、その例外は否応なしに「炎上」する現代にあって、果たして「文学」は持続可能なものなのか。


例えば、2020年に発売されたビデオゲーム『The Last of Us PartⅡ』は、その表現から大いに「炎上」した。作品の課題やプレイヤーの心象について誠実に論じられた「批評」「批判」もあったが、多くはクリエイターに対する極めて感情的な罵詈雑言、中には作中であるキャラクターを演じた役者に対して殺害予告さえ行われた。現代で「文学」を論ずることの困難さを象徴する事件に思う。

(それはそうと、「政治的に正しい作品を作れ」と同じぐらい、「ポリコレ的な作風をやめろ」とか「またポリコレか」という主張も同程度に「見たいものだけを見せろ」という欺瞞でしかないように思うのだが。)

この「炎上」のリスクが常に伴う社会で作者は十全に「表現の自由」を行使し、この社会における問題や現代人の弱さに触れることが可能なのか、よしんば作者がよくても編集者やスポンサーが認めるのか。


こうした悶々とした考えが実は杞憂に過ぎなかったと気づいたのは今年のことだ。特に『エルデンリング』、『さよなら絵梨』、『シン・ウルトラマン』といった作品に垣間見た「文学」とそれらに徹底して施された「偽装」を鑑みるに、現代でも「文学」はしかと生きている。すなわちただ美しいのみならず、その美しさによって現代への疑問を投げかける勇気、フィクションにしか作り得ない反撃がそこに生きていたのである。

具体的に、それぞれどのように「文学」となっていたのか、2022年の現代社会への反駁を行っていたのかについては、各記事にて詳細に述べているのだけど、ここで注目したいのはいずれも「文学」から想像する難解で、近寄りがたい外見を伴わず、あたかも誰もが親しめる(誰でも恭順させられる)「エンタメ」のように見えることである。

実際、これらの作品は直感的に受け止められる視覚的な快楽や、直情的にくすぐる心理的な官能さに満ちているし、むしろそれこそが作者が本来伝えんとする作品の目的なのだと思う。ソーシャルな社会が作り出す「共感」のユートピアを信じるような、そういう公共的な精神が今の作家の多くが持ち合わせている。

けれども、「共感」がもたらすディストピアに対して、今のソーシャルな社会に生きる人間が目を背けたり、誤魔化したり、あまつさえ暴力で従えんとする姿勢に、彼らは決して従ってはいない。これらの作品に触れていると、徐々に楽しいという気持ちと同時に「あれおかしいぞ?」という疑問が沸々と湧き上がり、気付けば自分たちの「正しさ」の喉元にまで刃を突き立てられているのである。


私はこれらの作品を、語弊を恐れずに言えば「童話」の類だと考えている。かつてイソップ物語やグリム童話は人間の傲慢や社会の問題について巧妙に子どもたちにもわかるような普遍的で愉快な物語へ置き換えていった。それにより子どもたちは残酷な近代社会へ身を投じることができたのである。

こうした「童話」の効果は、現代社会に「大きな物語」の破裂と同時に無数に生み出されたポップカルチャー……マンガ、ゲーム、特撮映画なども、実は限りなく近い効果が認められると思う。

では、なぜ今「童話」が必要とされるのか。そもそもかつて近代文学は、もっぱら帝国主義やファシズムなどの「国家」という明確な権力に対し、同じく重武装した知性でもって抵抗するものだった。それ故、権力と同等の気品や地位を重んずる上で、相応に難解かつ高尚に見せかけるものだったと考えている。

しかし現代では、権力の主体は国家ではなく、より抽象的な「雰囲気」や「世間」のような概念に分散していく。その時代においてフィクションが人に訴えかける上では、近代文学のような気品や地位よりも、むしろ「童話」のように誰もが理解し、楽しみ、それでいながら常に理解しきれない深度を持ったフィクションの方がよほど的確に権力の中枢、要するに大衆に作用するし、そうした大衆が容易に既存の権力をも変えうると言えるのではないか。

ポップカルチャーでも、いやポップカルチャーだからこそ。それらは「童話」のように広く愛され、親しまれ、そしてうっすらと疑問や反駁のきっかけとなっていくのだ。権力が最も抽象化された現代だからこそ、ポップカルチャーは時として何よりも文学的な役割を果たす。つまり人々に知性と幸福を取り戻させるのである。

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