見出し画像

元Jリーガーが6年間 仕事に向き合ってみた感想など

30歳になった。大学を卒業して徳島でJリーガーを3年、新宿に移り、新宿で社会人サッカーを3年、サッカーを離れて3年。セカンドキャリアという意味では、6年とも3年とも言えるややこしいサンプルだが、今日はその振り返りを書こうと思う。

Jリーガーをやめたのも、サッカーをやめたのも、僕の行動原理は一貫して、僕が勝手に思い描いていた〈大人〉になれないという焦りだった。サッカー界は、子どものままでいられる場所だ。そこでの活動は共通言語を持った同世代の男たちと、幼少期から続けてきたサッカーを続けることだった。

では、僕にとって〈大人〉とは何だったのかというと、それは〈仕事〉であった。〈家庭〉に対する執着が薄かったのは、有難いことに両親がその成功を空気のようにあたりまえに与えてくれたからだろう。

一方で、父親は「会社に行きたくない」と子どもたちの前で駄々をこねるような面白い人間だった。子ども3人を私立の大学に入れ、最近になって家まで建て、偉業としか形容しようがないわけだが、それでも彼のその態度は僕に〈仕事〉というものを考えさせるには十分だった。

しかし、僕の人生には常にサッカーがあり、アルバイトやインターンのような形でそれを現実的に検討するチャンスに恵まれなかった。

そしてJリーガーになってサッカーが仕事になり、その状況はより屈折した。分からないものに対する畏怖は膨張していくばかりだった。

そうして限界を迎えて、東京・新宿へ来た。狂ったように働いてやろうと思った。オフィス近くの市ヶ谷に、わずか12平米の部屋を借りた。遅くまで仕事をして、帰ってきて、寝るだけの部屋だ。本当に狂いそうになるほどの部屋未満の物件だったが、それくらいに昂っていた。

・・・

僕がどんな仕事をしてきたのか、少しだけ書いておく。読み飛ばしても困りません。

1年目:
まずやったのは、体育会の大学生と会いまくることだった。大学の会議室かなんかに、一人でプロジェクターを抱えて、ずらっと並んだ初対面の部活生の前で「良いチームとは」みたいなプレゼンテーションをする。接点人数の目標は1000人/年で、1部活平均を12人で試算していたので、大体100プレゼンくらいした。大学のとき日本一になってからまだ日が浅かったので、その経験で彼ら彼女らを惹きつける。リレーションを築いた学生たちが部活を終え就活をするタイミングでマネタイズする「人材ビジネス」だったが、あまり川下のことは考えず、学生と向き合った。

2-3年:
前述の仕事をしながら、興味があった広報をやろうと思った。当時、まだ会社にその機能が整理されていなかったので、外部の知見を持った人と一緒に広報室の立ち上げをした。ニュースリリースはこれまで1000本くらい書いた。SNSのフォロワーも20倍か30倍くらいになった。

4-5年目:
広報とマーケティングとの棲み分けは難しく、会社のスケールとともにないまぜになっていった。一般的にBtoCでは顧客フェーズ(Jリーグでは認知>興味>招待>購入>応援>に分けている)、メディア(ペイド / アーンド / オウンド、ただしオウンドと言っても、昨今はSNSも多様化している)またはメッセージの質(たとえば ブランドを訴求するのか vs 下品でもとにかく商品を売るのか とか)このあたりの軸をもってチームを編成し、コンフリクトが起きる場面では議論を戦わせ、時に加重をかけて意思決定をしていくべきである。ただ、そんな整理もできないまま属人的にその多くをカバーすることになった。

6年目:
そしてマーケティングにおいては、何をするにも「クリエイティブ」が必要になる。早い段階からインハウスのデザイナーがいたので、まずクリエイティブ室を組成し、外注を少しずつ増やしながらディレクションする領域を広げていった。ただ、ベンチャーとは=カオスという意味なので、この役割もエグゼクティブなものではなく、ロケハンもブッキングもやる。僕は非デザイナーだがPCにはPhotoshom、Lightroom、Illustrator、PremierePro、InDesignが入っていて、なんでもやる覚悟である。

・・・

とにかく仕事をしまくった。大小様々な荷物を抱えて、指先まで神経が通った。あるいは、霧が立ち込める中を全速力で走り抜けて、身体はすり傷だらけになったけど、視界不良でも前に踏み出す勇気を得た。

自分にどんなスキルがあるのかと聞かれると、これからは「コミュニケーション」と答えようと思っている。

アウェーの中で挑み続けたプレゼンテーション、キートップが外れるほど(これまで3度Apple社に交換してもらった)打鍵して作ったニュースリリース、誰に何を伝えるのか混沌とした中で発信すること、そこから逆算したクリエイティブ、このブログだって「コミュニケーション」だ。

こうした気づきは "Connecting the Dots" でしかなかった。とにかく頑張ろうという気概とともに、効果的に経験を積んでやろうという打算も多少は持ち合わせていたが無駄だった。

デスクトップに散乱した"done"のタグがついたタスクたちを抱えて休日のスターバックスにこもり、それらを古今東西あらゆるフレームワークに入力し、何とか自分の仕事を説明してくれる言葉を探し続けた5年と半年だった。

「コミュニケーション」とはなんとも凡庸な言葉であるが、自分の中で過不足ない言葉にたどり着けたと思う。同時に、仕事というものに対しての焦りはなくなった。それは、うまい表現がみつからないのだが「俺は仕事というものができるようになったなあ」というような実感のことである。もちろん、できないことはたくさんある。でも、とにかくこの実感こそ、僕にとって非常に重要なものだった。

・・・

僕が想像していた〈仕事〉とは、〈何をできるか〉ということだった。その先には「自分にしかできないこと」があり、さらにその先に、自分の存在の根拠のようなものを求めていた気がする。

しかし〈何をできるか〉の追求によって、替えがきかない人間になることは不可能である。経営や経済はそれほど脆弱ではない。有能な人がいなくなれば、また有能な人が現れるだけだった。もとより替えがきかない人間になんてならなくてもいいわけだが、遺伝子の乗り物にも自我がある。こうした欲求は避け難いものである。

ふと僕は、中村哲を思い出す。中村哲とは、アフガニスタンとパキスタンで35年にわたり、病や戦乱、そして干ばつに苦しむ人々に寄り添った人物である。彼はアフガニスタンに用水路をひいた。彼は医師だった。医師として、彼に特別な才能や能力があったのか、僕は知らない。しかし、彼はアフガニスタンに行って、たくさんの人たちを救った。彼は替えがきかない人間だったはずだ。それは〈何をできるか〉ではなく〈何をするのか〉という点で。

これまで僕は〈何をできるか〉に夢中になっていた。自分の未熟さに関する修行は時に快適ですらあった。肉体的にも精神的にも疲労したかもしれないが、それは筋トレのように自分を痛めつけて、自分を大きくする、それを眺めて喜ぶ自己満足的な行為だからだ。

僕はもう仕事ができる。いや、実際のところどうなのかはわからない。同僚たちに尋ねれば苦笑されるかもしれない。それでも、僕は〈何をできるか〉への執着を断ち切り、〈何をするのか〉という問いの前に立つことができたと感じている。そのことは良いことだと思っている。

僕は何をするのか?。自分の能力と時間を、何に使うべきなんだろう。

極めて漠然としているが、僕は素晴らしい仕事がしたい。素晴らしい仕事とは、素晴らしい仕事のことだ。自分がそう確信できる仕事のことだ。何か新しいことを始める決意ではない。日々の仕事の中で、それを求め続ける決意である。

仕事への手応えを得たことは、同時に「それっぽい感じ」に仕事ができるようになってしまったということでもある。素晴らしい仕事っぽくできてしまう、それは自分すら欺けるクオリティである。油断すると意味のない人生になってしまうという危機感がある。

そうして僕は、僕の仕事というものを定点観測しておく必要性を感じている。僕は、素晴らしい仕事ができているのか?ただそれだけを永遠と自分に突きつけたい。僕が言いたいのは「永遠」。そのための週報である。毎週更新するとは言っていない。


最後まで読んで頂き、ありがとうございました。