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4-2.青銅器のもう一つの役割

 出雲では交易航海文化の発展によって、特殊な再葬方法が行われるようになり、そのために青銅器を使用するようになったのではと考えた。

 しかし、それにしてもまだ青銅器にはわからないことがある。1-3で先述したが、なぜ青銅器を作ってすぐに埋めたりするのかということである。いくら青銅器が特殊な葬儀道具として作られたとしても、埋める必要があるのであろうか。どこか別の場所に大切に保管すればよいだけの話ではなかろうか。そうでないとすれば、そこにはもう一つの青銅器の役割があるはずである。

 もう一度、青銅器の性質を考え直してみたい。銅剣は「切る」道具、銅矛は「突く」道具、銅鐸は「鳴る」道具。それ以外に何かあるだろうか。実は、ある。青銅器は「変色する」ということである。

 青銅器は本来、黄金色をしているが、錆びると青緑色に変色する。果たして、古代人はそのことを知らなかったのだろうか。まず青銅器の制作者は絶対知っていたはずだし、土に青銅器を埋めようものなら、すぐに変色することを知らなかったはずがない。それなのに平気で埋められているということは、変色することが彼らにとって必要なことだったとは考えられないだろうか。

 青銅器が特殊な葬儀に使用される道具だったとしたら、彼らにとって何らかの死生観が関係していると考えられる。死生観とは、人は何故生きて死ぬのかを理解する手助けとなる世界観のことでもある。それを考えたときに、古代人が共通して持っていたあの世界観に気付かされる。人は死んだら誰もが訪れるという地下世界「黄泉の国」である。

 「黄泉の国」は地下世界であるが、黄金の泉が流れているので暗くないということになる。もともと中国にあった考え方らしく、この国で始まった世界観ではない。だから人はみな死ぬと黄泉の国にいって戻ってこれないのですと言われれば、はいそうですかというしかない。死んで戻ってきた人はいないのだから。ただ、なんで黄泉の国は黄金の泉が流れているのですかと古代人は思わなかったのだろうか。そこ、である。古代の人々は、理由があって黄泉の国では黄金の泉が流れていると信じていたのではなかろうか。その理由が青銅器の「変色」である。

 我々、現代人は科学の時代に生きているので、銅が錆びると青緑色になることをあらかじめ知っている。知っているからこそ、青銅器が発見されると内部をドリルでちょっと削り、そこに黄金色があらわれると、ほら古代人は当時黄金色の青銅器を崇めていたのですよと仮説を立てる。そして我々はそれを疑問にも思わない。しかし、その仮説は本当に正しかったのだろうか。

 古代人はその黄金色に輝いた青銅器を惜しげもなく埋めてしまう。彼らは青銅器が錆びて変色することを知らなかったのであろうか。たとえはじめは知らなくても、埋めてしばらくして取り出してみると青緑色に変色している青銅器を見て、もう二度と土に埋めることはやめようとだれ一人思わなかったのだろうか。ところが古代人はまるで青銅器が変色しても問題ありませんとばかりに、青銅器を土に埋納している。これを不思議と言わずしてなんというであろう。

 実は古代人は青銅器が「変色」するという事実を希貨としていたのではなかろうか。そして古代人は青銅器の黄金色が土に埋めておくと失われることをあらかじめ知っており、その失われた黄金色こそが地下の「黄泉の国」に流れる黄金色の泉の源泉になっていると考えていたのではなかろうか。すなわち青銅器と黄泉の国はセットで語られるべきであり、青銅器がこの国に入ってくるときに黄泉の国の死生観も同時に導入されたのではないだろうか。

 古代にも親子は当たり前ながら存在する。子供は母親に、人間はどうして生まれてきて死なないといけないのと問う。そのとき母親は、死んだらみんな同じ地下世界へ行くのだよと答える。いやだよ、地面の中って暗いじゃないと子供はむずかる。いや、泣き出すかもしれない。母親は落ち着いた声で子供に、地下世界は暗い世界ではないよと諭すように教える。今、航海に出ている父親の長が暗い世界にしないように黄金の水を地下に流してくれるんだよと説明する。その黄金水は地下に深くに流れていって、けして二度と目にすることはできない。でも死んだらその輝く黄金の泉を頼りにお母さんを探しなさいといって安心させる。
 ほら、聞いてごらん、あの鐘の音を。神山の森から鐘の音が聞こえる。黄泉の世界に黄金の水を流し込んでくれた長が神様になって我々を見守ってくださるよ。そんな寝物語が聞こえてきそうでないか。


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