nLDKの持つ意味と終焉

nLDKって意識したことありますか?

ライフルホームズ総研が、2018年4月に発刊したRETHINK「住宅幸福論」Episode.1という雑誌を昨日読んだんですよね。専門がエネルギーというマニアックな僕も、

・住宅に関わる人がどういうことを考えているのか
・住まいという文脈でエネルギーを眺めてみたい

などの気持ちがありました。なので、たまたま手にしたこの雑誌を読んだのだけど、プロローグを書いた島原万丈所長の文章からしてかっこええなあと思ったのです。中でも、nLDKという言葉は、ちょうどこの3月に神戸市内で引っ越した身としては、間取りについて真剣に考えた期間があったので、親近感があるわけです。nLDKについて、島原さんの文章から抜粋すると、

現代の住宅の間取りプランを表すnLDK (nは家族人数-1と言われる)は、1951年(S26)の公営住宅の標準プラン「51C型」に端を発する。-中略- 標準の名が示すように、「51C型」は戦後の住宅難に対応して、短期間での大量供給を可能にするために考案されたものでもある。

というわけで、引っ越しするのに「3LDKかなー」とか「3DKかなー」とか、「2LDKでもいいかー」とかで、nLDKに翻弄された僕だったわけですが、これは標準住宅を指向した当時の政策にあったのかという、まずは学び。

そして続いて、

後に団塊世代の住宅需要に対応して登場した3LDKでは、2人の子供にそれぞれ個室を与えた。個室に分離した家族が団欒をすることで家庭になる/家族をする場所としてリビングが付加され、そこには家族団欒たるテレビが置かれていた。

とある。ほうほう、作られた団欒だったのか、と笑 いまだに、リビングにテレビを置いて、これが団欒だよねという家庭はたくさんあるのだとは思う。が、それもまた崩れつつある。

時代がめぐり、夫婦共働きが当たり前になり、夫婦の性役割分担は解体されつつある。家族はそれぞれ各自のスマートフォンでネットにつながり、リビングルームのテレビが家族団欒に果たす機能は損なわれた。

島原さん、すばり言ったよ。しかしほんとそうだし、テレビを囲む家族団欒像に違和感を覚えていた僕は「頭おかしいのかな」と自問自答していたが、そうでもなかった。よかった笑 そしてnLDKの持つ意味について、

夫婦と子供からなる核家族を標準とする社会構造は緩み、その暮らしを空間に写し取るnLDKは、単に空間の配置を表現するラベルに過ぎず、かつてそれが意味していた家族の形や暮らしの実像を示すことができなくなっている。

というように、変わってしまったのだと。なるほどです。なるほどすぎます。そしてこのnLDK、もっと言えば3LDKが持つ幸せ像は昭和の価値観(1951年だよ?)であるはずなのに、それが人々の中で平成の30年間もずっと持ち続けながらも、実態はそこから少しずつ離れていっていて、それなのに、一人一人が「なんかあの家族団欒像とは違うぞ。どしたらええんや?テレビとか置いた方がいいんか?いや、いらんけども。」みたいな笑、ギャップの気持ち悪さを抱えていた時代ともいうべきもやもやした30年だったのかもしれません。

「いつかはクラウン」に心動かされてきたのは昭和の時代、もしこの平成から令和の時代に「いつかはレクサス」といっても1ミリも心が動かされない人も、住宅についてはいまだ昭和的価値観が健在だ、というのも島原さんの指摘です。なるほどすぎるよー。

nLDKが持つ意味が、幸せ像→配置を意味するだけ、に変わった平成。それを腹におとそう。そこから始めるまさに次の時代。そうした視座からエネルギー、だけでなく地域デザインを眺めることも、とても重要だと感じたのでした。

いつもありがとうございます。 サポートのほど、どうぞよろしくお願いします!