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大人になる方法について

古本屋に寄って『蝿の王』を買ってきた。ほら貝を吹くまでの導入の部分でさえ、情景が目に焼き付くような鮮烈さを持っている。古典のひとつに数えられるような作品なので、その後の展開はおおよそ頭に入っている。しかし、もし何も知らずに読み進められた出版当時はかなりの衝撃を与えただろう。

大人になる、というのは何なのだろうか。これを書いている私は20代で、子供ではないが成熟した大人というには若すぎるかもしれない。この半端な人々には青年という表現が使われることもあった。もっとも、最近はあまり耳にしない。

法律上の成人が定められていたとしても意味はない。年を重ねたというのは単なる書類上の変化であって、精神や肉体が急に変わるわけではない。一方で文化や民族という観点で見てみると、「成人の儀」というものはいくらでも発見することができる。

世界中探せば目を疑うような儀式や、一風変わった風習も紹介できるだろう。ただ、もっとも身近なのは日本で明治維新以前までは存在していたとされる元服だろう。

時代や身分によって細かい変化はあるものの、名前が変更されるという部分は共通していることが多い。なるほど、周囲から呼ばれる名前が変わるというのは本人の自覚を促すのに最適な方法だろう。

昇進して肩書きが変わった時、その瞬間よりむしろ周囲から役職で呼ばれるようになって初めて実感が湧くことようなものだろう。封建的な雰囲気の中で、ある意味で「成人」「大人」という社会的な役職に昇進したような感覚に近かったのかもしれない。

先ほども言ったように、現代人にとっての成人は法律が自動的に認定してくれるものにすぎない。「大人になれない」人間は理論上は存在しないことになる。しかし儀礼が省略された分、自分が大人だという実感を持つには自力で何かを追い求めるしかない。

世間のことを訳知り顔で語っても面白くないから、自分のことを話すと、私は今でも大人になった気がしない。年上の方々は「まだ20代だからそんなものだ」と思われるかもしれないが、なかなかに難しい問題である。

これをすれば大人だ、と納得できるものが存在しない。例えば終身雇用よりキャリアアップの転職が表に出てきた時代には、就職だけで一人前とは認めにくい。学生時代が抜けないという表現もあるくらいだから、それを儀礼の代わりにするのは無理があるだろう。

結婚もよい選択肢とは思えない。昔の結婚は家同士の繋がりという公的な側面を持っていたが、現代のそれは個人同士の恋愛で私的な領域にとどまっている。公に大人として振る舞えるかという自己の基準には適していない。

ともすると、大人になる手段は永遠に失われてしまったのではないだろうか。あるいは「もう大人だ」と自ら言い聞かせて背伸びする子供として過ごすべきなのだろうか。自分に照らし合わせて考えると、ひとつだけ納得できるような方法があった。それは自分と徹底的に向き合い、克服することである。

長く生きていれば自分が背負っている責任にも気づけるようになる。自らの弱みを見抜けるほどの知恵もついているはずだ。いずれにせよ、過去の自分を正面から見据えることは不可能ではない。ただ恐ろしくて避けているだけである。

何かひとつでもいいから、自分に打ち勝つこと。元服のように昔の自己を捨て去るのである。確実に自分自身の中では区切りがつくだろう。名前が変わるような明確さはないから、周囲からの反応は期待できない。しかし内面の変化は公的な場での振る舞いにも影響する。少しずつ認められるかもしれない。

『蝿の王』に出てくる子供たちは決して単に愚かだったわけではない。体格を考えると、むしろ不器用な大人より優秀だったかもしれない。破滅を産んだ原因は各々が自分を制御しきれなかったところにあるだろう。

金では解決できない厄介ごとだが、子供のまま人生を終えるのも面白くない。自分のことを胸を張って大人だと宣言できる日のために、日々取り組むしかなさそうである。



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