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近くにケーキはありますか

先日、推しが炎上しているというネットニュースを見つけました。
ホールケーキをぐちゃぐちゃにしてほかの食材と混ぜるという動画についての記事です。

この動画は実際には炎上……というよりは賛否両論というかさまざまな意見があって、「食べ物を粗末に扱うなんて」みたいな批判もあれば、「買った人の自由」なんて擁護するような意見もあるし、「何も思わなかった」という声もありました。

こういうネットニュースについうっかり私たちは、「どういう意見が正しいのか」というふうに考えがちです。
「私たち」と思わず主語を大きくしましたが、少なくとも私はそうです。最終的に結論なんて出ないことのが多いのだけど、最初はまず、ほぼ無意識にそういう受け止め方をしてしまいます。

少なくともこの件に関しては、何が正しいということを私は言うことができません。
この動画を楽しんでいる人もいれば、ケーキが潰されるさまを見て不快に思う人もいるわけです。

でももしこれが、デコレート前のスポンジだったらどうでしょうか? しかもそれが工場で機械的に作られているものだったら?
おそらく炎上という書かれ方はしなかったでしょう。

ではもしこのケーキが、このクリエイターの家族が誕生日プレゼントとして手作りしたものだったら?
おそらく擁護する人はほとんどいないでしょう。

ケーキというものの解像度とかケーキへの距離が、人によって違うということだと思います。(パティシエの人が「できれば隠れてやってほしい」とやや批判的なコメントをしたらしいのですが、その人はやはりケーキに対する解像度が高いのだと思います。)

ケーキの動画を見て、そこに質感を感じるかどうかと言ってもいいかもしれません。

ケーキを作る人への解像度はない人でも、たとえば「誰かからの愛情」「誰かへの愛情」はよく知っている。
だから家族からの手作りケーキを潰したら、炎上は免れないということなんだと思うのです。


たくさんの人に見られることを前提とした動画(しかもYouTube shortなんていう薄利多売の極みみたいなコンテンツ)に、質感なんて求めてはいけません。(念のために付け加えておきますが、これは「ケーキを無駄にするなと言ってはいけない」ということが言いたいわけではありません)

前の記事にも書きましたが、推しのコンテンツには基本的に質感がありません。
それは推しのせいというより、YouTubeというプラットフォームの構造にその原因の一つがあるのだと思います。数字を追う中で、自分が人間として生き物として持っている世界への解像度みたいなものを、ときには捨てなければならないのかも知れない。

ファンの欲目かもしれないけど、繊細でない人たちだとは思えないのです。

その物事の質感への解像度はチームやコミュニティ作りに生かされ、数字を維持するためには場合によっては捨てられる。後者のために使われるのはおそらく、知力とか経験値とか勘だとか。

ちなみにちょっと余談ではありますが、そうであるとするならわれわれファンの位置というのはとても微妙なものだと思います。また別の記事で書くかも知れませんが、われわれファンはたぶん、推しを数字で支えることができていません。
それを支えているのは、きっとライトな視聴者だから。

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