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山下達郎の「大切なご報告」に関して

オレは山下達郎のいいファンではないが(その意味は、殆どのCDは持っていて、RCA時代のものなど複数枚あるが、最新リマスターのアナログ盤までは買い求めていないファンといった程度のこと)、今回の「大切なご報告」=弁明に関しては心底落胆した。正確には一つの疑問と大いなる落胆だ。落胆は批判や非難ではない。山下達郎は必ずしも間違ってはいないから批判や非難はあたらない。転向したり変節したりしたのかはわからないが、とにかくこういったことを考えているのであり、それはそれで彼においては一貫したことなのだろう。ただそれは大いなる落胆をもたらすものであった。
さて、私たちは、松尾某との関係ではなく、ジャニー喜多川というペドフィリアによる性犯罪とジャニーズ事務所への山下達郎の態度を皆知りたがっていたのだが、山下達郎は次のように述べている。(なお、以下、当然のことだが、ペドフィリアそれ自体は断罪されるべきことではない。)

「今話題となっている性加害問題については、今回の一連の報道が始まるまでは漠然としたうわさでしかなくて、私自身は1999年の裁判のことすら聞かされておりませんでした。」

これに関しては疑問。
バカな。嘘をついているか、耳を閉ざしていたのだろう。オレですら裁判のことは知っていた。

残りは大いなる落胆。

「性加害が本当にあったとすれば、それはもちろん許し難いことであり、被害者の方々の苦しみを思えば、第三者委員会等での事実関係の調査というのは必須であると考えます。しかし、私自身がそれについて知っていることが何もない以上、コメントを出しようがありません。自分はあくまで一作曲家、楽曲の提供者であります。」

調査の必要性を訴えるコメントを出すことは出来るだろうが。知らないからこそ調査をもとめるんだよ。そして、偉大な「一作曲家、楽曲の提供者」、それもジャニーズ事務所所属のミュージシャンに国民的楽曲を提供している山下達郎がそういう提案をするからこそ、被害者はもちろん、ジャニーズ事務所の心ある関係者と、もしかしたらジャニー藤島の心を動かしたかも知れないんだよ。そういうジョーカーを切る可能性を有していた数少ない人物が、ジョーカー切らない宣言をしたのだから落胆は大きい。「私の人生にとって一番大切なことはご縁とご恩です」と述べるなら、縁あった会社の関係者に間接的にでも提言する、というのが恩を返すことではないのか。醜聞を知らなかったとし、性犯罪に蓋をすることに加担するという振る舞いが恩を大切にすることなのだろうか。(なお、オレも山下達郎が言う意味では「知っていることが何もない」が、『週刊文春』の一連の報道などから判断する限り、ジャニーさんというペドフィリアによるペドフィリア性加害が一定程度、おぞましい仕方で長期間、常習的に行われていたことは疑いがない、と思う。)

「私が一個人一ミュージシャンとしてジャニーさんへのご恩を忘れないことや、それからジャニーさんのプロデューサーとしての才能を認めることと、社会的・倫理的な意味での性加害を容認することとは全くの別問題だと考えております。」

これはオレもそう思う。だからこそ、ジャニーさんというペドフィリアによるペドフィリア性加害についてもきちんとした検証が必要だと言うべきなんだよ。性加害が一般によくないなんて誰にでも言えるんだから。
オレは今後も荒井由実の作品だってたまには聞くだろう。山下達郎のCDだって売り払ったりはしない。が、聞く頻度は極端に減るだろう。

そして、その後話のすり替えがあった上で、

「このような私の姿勢を忖度、あるいは長いものに巻かれているとそのように解釈されるのであれば、それでも構いません。きっとそういう方々には私の音楽は不要でしょう。」

と来る。こういう大人にだけはなりたくない、という典型的な言葉だ。

ジャニーさんのことは尊敬していて、醜聞については知りたくありませんでした。性犯罪についても知らなかったことにしたいです。肛門性交や無理やりのフェラチオが少年にどんな傷を与えたとしても、そしてそういったことが背景にあった上だとしても、そこに構築された人間同士の密な関係が重要なのであって、そんな自分の知る術もないことには蓋をして、ジャニーさんの育てた数多くのタレントさんたちが、戦後の日本でどれだけの人の心を温め、幸せにし、夢を与えてきたか、ということだけを大切にしていこうではないですか。

こういうことなのだろう。これは、アメリカ合州国の育てたザ・ビーチ・ボーイズを始めとする数多くのミュージシャンたちが、ベトナム戦争時の世界でどれだけの人の心を温め、幸せにし、夢を与えてきたか、とだけ述べるのとどこが変わらないのだろう。

もちろん、この世界において夢の国を守り続けることは困難なのだと思う。だからこそ、情報のコントロールというか報道管制が必要なのであって、ジャニーズ事務所のマスコミ対策にはそれ相応の意義があるのだろう。(この点、批判されるべきは大手マスコミ。)同様のことは浦安にあるネズミ園にもあてはまり、文字通りネズミが沢山いたり、実際に働いている労働者の雇用環境が劣悪だったりしたら、夢の国どころではなくなるから、ネズミを除去し、労働者の雇用環境を整えた上で、夢の国のイメージを失墜させるような報道はなされないように努力しているに違いない。もう一つの夢の国、宝塚の場合も、ジャニーズ事務所の場合とまでとはいかずとも、何らかの情報のコントロールというか報道管制はなされているのだろう。だが、ジャニーズ事務所の場合は、山下達郎が望むように、夢の国、ないしは夢の再生産工場としての役割を維持していくことは、もはや事実上不可能なのではないだろうか。創業者がペドフィリア性犯罪者、所属タレントの誰が画面やスクリーン、グラビアなどに映ってもそういった場面が想起され、それを払拭するのは難しい。その記憶が薄れるまで持ちこたえることが出来るのだろうか。ジャニーさんの正の遺産を本当に受け継いでいこうとするなら、幹部は総辞職して会社の名称を変えて再出発するのが筋だろうし、多くの人はそう考えているのではないか。宝塚のスター・タカラジェンヌたちが代々小林一三や小林一族の愛人だったりしたことが発覚したら(もちろん、これは事実ではない)、宝塚がもたないのと同じことだ。それだけのことを創業者はしてしまったのだと思う。

なんでこんな長々と書いてしまったのだろう。山下達郎のことがそれだけ好きだったということに尽きる。(2023年7月9日記)


好きなんだけどな…


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