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花荼-ハナダ 了

「結局彼女とは何だったんだ」
 岡崎の長い話が終わった。疑問だけが山のように残った。彼が言ったように、情報などほぼ何もない彼女だった。
「無戸籍児だったと思うんだ。最近多いんだ。僕も、あれからいろんな本や新聞記事で調べてみたよ。刑務所でも、チャンスがあれば新聞を読むことが出来たから。簡単な図書室もあったしね。親が届けない子どもと言うのも少なくない。問題になっている。もちろん学校に行くことも出来ない」
「それでお前はどうした」
「僕は裸で山を下りて、まず猥褻物陳列で通報されたよ。後は、話した通りだ。いろんな容疑が掛かったからね。ひとつひとつ起訴された。
レンタカーの窃盗や、不法侵入や、器物損壊や。それに氏の死体を燃やしたことだね。徹底的に焼いてしまったから、結局身元は確認できなかったみたいだ。取り調べの時にそんな風に聴かされたよ」
 私は納得がいかなかった。岡崎の話の中には、今彼が満足のいく満ち足りた顔で生活をしている根拠が何もないのだ。私は尋ねたかった。
 お前にとって彼女とはなんだった?
「お前は、まるで生まれ変わったような顔をしているよ」
 訊くことは、出来なかった。岡崎は記憶と全く違う顔をしている。異なった表情を作るようになっている。違う人間に生まれ変わったようなのだ。
私の知っている岡崎ではないのだ。この男は、私の目の前でチョコレートをつまんでいる男は、他人の死体を平気で燃やしてしまえる。私は恐怖した。恐怖を感じたが、岡崎の笑顔が私にそれを敬う、畏敬の心さえ起こそうとする。どうしてだろうか。
「僕もそう思う。僕はきっと、あの時、彼女と伴にそれまでの自分を焼き殺して、そうして全く違う人間がここに居るんだ」
「面白い話だったよ。それに元気そうで何よりだった」
 私は自分の連絡先を知らせなかった。これから旧交が復活するわけがない。私は見も知らない犯罪者を見に来た好事家だ。動物園の珍獣を見に来る悪趣味な観客だ。それだけのことだった。
「ああ。僕も、久しぶりに会えてよかった。チョコレートも。ごちそう様だ」
 恋人によろしく。岡崎は最後に言って、私が立ち上がると、一緒に立って玄関まで送ってくれた。
ドアは塗装がはがれて、錆びていた、ノブはぎちぎち言って回った。どうして改修しないのだ。県にはそんなに金が無いんだろうか。公が貧乏人にしてやる事とは、こんなものだろうか。
「じゃあな」
 私は二度と訪れる事のない家を後にする。うち捨てられた要塞のような建物を。この中に一体何人の行き場無き人たちが居るのだろうか。

 うちに帰るためにバスを待っている間、時間をつぶすために、岡崎の言葉を再度拾い上げてみた。考えて、何度も何度も考えて、ふと、私は見つけた。
 齟齬があるのだ。決定的な齟齬だ。岡崎の話に違和感があった。その訳を私は見つけてしまった。
 

 彼女は何故、氏の物語を読むことが出来たのか?
 親が届けないような、戸籍すら持っていない子どもが、学校に行く事の出来なかった彼女が、どうやって漢字の多用された文学小説を読むことが出来た? 一体誰が彼女に文字を教えたのだろうか?
 岡崎の言では兄弟が二人いたということだが、その誰かから教わったのか。他の兄弟は学校に行っていたか? 果たして彼らは届け出されていたのだろうか。そもそもそれは本当に兄弟なのか。
 もし彼女の兄や姉も学校に行っていなかったのだとしたら、彼女は絶対に文字を読むことが出来ない。聞き得る限り出鱈目な親の様だ。間違っても自分たちで教育を施したりしたりしない。彼女に難しい漢字が読めるようになるまで、ものを教えたのは一体誰だ?
 当然、そんな奴は居ない。
 そう。岡崎の彼女は、存在しないのだ。
 私は答えを見つけて一人狼狽える。
 おそらく、その彼女は私が最初に思ったように、親に甘やかされて大金を持たされた金持ちのふてくされた娘なのだろう。その彼女が、偶然にも、練炭自殺をした人物の死体を見つけた。そうして、驚くべき空想能力で、自分と小説家の物語を練り上げた。それこそ、車を見つけた時点で、一瞬にして思いついたのだ。不幸な一人の女の子が、不遇に生きて、しかし幸福な最後を迎えた。その物語の中に岡崎を巻き込んだ。
 若い女の子は理由がなくても死にたがる。彼女は自分が最高に死んでしまえる物語を思い描いて、その中に入れるのに適当な男を物色した。
 そこまで思い至り、更に私は考えた。待てよ。もっと違う可能性がある。彼女は存在しなかった。岡崎は彼女を無戸籍児だと言った。戸籍が無ければ存在していないことになる。違う。そうではない。
 彼女は本当にどこにも存在していないのだ。
 岡崎は様々な罪で起訴されたと語った。しかし、新聞の記事では死体遺棄の罪にしか問われていない。重視されなかったと言う事なのか。新聞の文字数は決められている。岡崎の小さな事件を詳細に記すことは出来なかったか?
 そしてもう一つ。岡崎は彼女の死体を燃やしたと言う。しかも燃やされた遺体は焼き尽くされていて、性別を判断することが不可能だった。だから彼女の痕跡は見つからなかったのだと。ここにも齟齬が存在する。そんな事が可能だろうか。生木にガソリンを掛けたくらいでそこまで遺体が燃えるだろうか。私の持ち得る知識では、不可能だ。
 ではこう考えるしかない。彼女は、岡崎が自分の人生を力づくでリセットするために作り出した、妄想だ。物語は彼女の物語ではない。物語は岡崎の頭の中に存在する。
 おそらく、真実はそうだろう。私はつまらない人生を生きた。同じように岡崎もつまらない人生を生きてきた。その無意味な時間を否定するために、岡崎の脳はフル回転をして、妄想を一つ作り出す。
 だとしたら燃やされた人物は誰なのだ? 岡崎は確かに死体遺棄損壊の罪で起訴されて服役している。それだけは事実だ。間違ってはいない。現に岡崎は前触れなく会いに来た私との会話に、全く問題なく適応したではないか。確かに彼は人を一人燃やし切っている。
 ではそれは一体誰だったのだろう。岡崎が偶然居合わせた自殺後の死体は、本当は誰の遺体だったのか。私の脳裏に一つの空想が浮かび上がった。
「気が狂ったんだ」
 それは、岡崎だったのだ。今となってはそうとしか考えられない。自分の死体を運搬する岡崎の姿を私は思った。脳内では彼女と二人で、現実では一人きりで車を運転して、彼は山道を行った。そして後部座席の寝袋の中に入っていたのは、岡崎の死体だ。
 岡崎は、誰かの死体に自分のくだらなかった過去を託した。自分の死体である妄想を使って。そして、燃やし尽くすことで、自分自身の焼却をでっち上げたのだ。美しい彼女との妄想を描きながら。踊っていたのは岡崎ではなかったのか。だから、彼女はどこにも存在しない。存在そのものがこの世にはない。
「私も、頭がおかしくなったのか」
 しかし岡崎の話を反芻すればそれだけ、自分の推察が確かであるような気がしてならない。でなければあんなに明るい顔をしていられるものか。四十五の男が。路上で十年土を喰らっていた男が。
 私は岡崎がうらやましくなって、そんなことを考える自分に呆れ果てて、注意が反れてバスを一本見逃した。岡崎がうらやましい。彼はこの歳で人生をやり直すことに成功したのだから。無理やりでも罪を犯して、刑務所でこの世の地獄を体験した。
 生きながら地獄を体験することは案外少ない。岡崎が路上で永らえたように、人とは生きてしまうものなのだ。私はそう思う。
 彼は自分を自力で終わらせた。上手く一度人生を閉じて、違う人間になって私の前に現れた。私も同じことをしようとしたら出来ただろうか。いや、これから私も岡崎と同じことが出来るだろうか。今の生活をすべて捨てて。恋人の事も捨て去って。何もかもを一度台無しにして。本当に、真から全部を駄目にするんだ。
 私は次のバスも見逃した。果たしてもう一度やり直したいと思うほど私は自分の人生に愛着を持っているのか? しかし、岡崎の例で少なくともそれは可能であることが分かった。
 私も、くだらない人生を終わらせることが出来る。その事実が、今、身震いするほど私の前で光を為す。

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