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心に海がない

「オーシャンビュー」と呼ぶにはいささかラグジュアリー感に欠けていたものの、穏やかな入り江のほとりに佇む静かな部屋をわたしはいっぺんで気に入ってしまった。

最新の設備が整っているわけではないし、部屋がそう広いわけでもない。スタッフから熱気あるホスピタリティ精神を感じるわけでもない(褒めてる)海辺のホテル。部屋にベランダはなく(角を切り取ったような外に出られる1/4畳ほどのスペースはあった)、はめ殺しの窓には日がな一日入り江の様子が一枚絵のように映し出され、波の音が途切れることなく耳に流れ込んでくる。たったそれだけのことが、こんなに心地の良いものなのかと静かに震えた。

わたしは海のない街で生まれ育ったから、いまだに海を目の前にすると毎度律儀に、新鮮に感動してしまう。

海とはもっとフランクな関係になりたい。仲の良さゆえのぞんざいな扱いをしてみたい。「海? ああもう見飽きたわ笑」みたいな。「海? もうしばらく会わなくていいよ笑」みたいな。

しかし実際には、視界の端に海のきらめきを見つけるやいなや、拝み倒さんばかりの勢いで子どもたちを差し置き、「海! 海だよ!! 海、うみ!!!」とパブロフの犬に負けない勢いで大興奮してしまうのだった。

浜に降り立てば、足元で割れる白波の泡にはしゃぎ、寄せるのを順序よく待つ波に自然の神秘を子どものように素直に感じてしまう。ここには過去も未来もなく、今目の前に広がる世界だけがすべてだ。

海をそばに感じながら育った人の心にはやはり海があるのだろうか。わたしにはない、確実にない。いつだって海は遠い存在だ。市内を流れる川は、河口よりも源泉地の方がはるかに近い。いつだってわたしと海とは、知り合い以上友達未満みたいな関係性。くううう、もどかしいのよ。駆け引きは苦手だ。

「穏やかな波の音で心が落ち着いた」とか「雄大な海原に勇気をもらった!」とか、そういう通り一遍のものじゃなくて、わたしと海だけの関係性のもとに訪れるささやかな機微のようなものが欲しい。ふたりの仲を深めるには秘密の共有が欠かせないものでしょうよ。

そんなことを考えながら、ホテルで波の音に耳を傾けていた。家族はみんな寝静まり、念願叶ってわたしと海だけの時間。旅先での夜は思いのほか長く、時間を埋めるように流し込んだ缶チューハイの炭酸の泡が舌先で弾ける。昼間の浜辺で足元で弾けた白波の泡を思い出す。じわり、海がわたしの中に流れ込んできた。少しだけ、海との距離が縮まったような気がする。




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