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意味はない

5月の模範解答みたいな空と緑の色、風の匂い。桜の季節には車でいっぱいになるスペースはがらんとしていて、わたしは堂々と真ん中に駐車する。エンジンを切った後、ダッシュボードから取り出したマスクをつけるか否か一瞬だけ悩み、かばんの奥に押し込んだ。

バタンと車のドアを閉めて外に出ると、濃密な5月の空気が鼻の奥まで流れ込む。あまりにてらいのない、ストレートな5月に足元がぐらつく。世の中ってもっと揺らいで、曖昧で、確実なものなんてなかったはずでは。ただただまっすぐな5月がここに存在することに面食らう。

そんなことを思いながらゆるやかな坂道を3分ほど歩くと目的地に着いた。「田の神さぁ」に会いに来たのだ。田の神さぁとは旧薩摩藩に伝わる文化で、その名の通り五穀豊穣を願う田んぼの神様。作られた時代や土地によって姿形が変わり、そのファニーな見た目と民俗学的見地から愛好家(?)は多いっぽい。

前からその存在は知っていて興味はあったのだけど、実際に見に行く一歩が踏み出せずにいた。そんなとき何気なく「田の神さぁ」で検索してみたところ、意外にもわたしの住む街にも多くあることを知ったのだ。

「これは見に行かねば!」と思った一方で、そこに理由や意味を求める自分もいた。(単なる好奇心だけでしょ?)(仕事になるの?)そんな思いをええい! と振り払い、いざ見にやってきたというわけだ。

田の神さぁは小高い丘陵に鎮座していて、静かに田畑を見下ろしていた。検索し尽くしていたのでその佇まいには見覚えがあったし、特段驚くようなことはなかった。けれど、実際に足を運ばなければ分からないことも確実にあった。

同時に、自分が見たいものを見られた、という充足感でいっぱいになって、やりたいことに、好きなことにわざわざ意味なんか求める必要ないなとも思った。

つい、わたしたちは未来から逆算して今やるべきことを決めてしまう。あらゆる行動に意味を求めてしまう。仕事であれば、なるほどそれは正しいかもしれないけれど、自分の人生という視点に立てば必ずしもそれが正解ではないのかもしれない。

自分の人生を満足させるには、今を起点にして動いてもいいんじゃないかな。たまたまの出会いをスルーせず、ただただフラフラと偶然にたぶらかされてもいいんじゃないかな。「自分の思いに忠実に動く」というのは自分を満たすひとつの方法であり、人生を豊かにする方法なのかもしれないなどと思ったのは、あまりに5月に忠実過ぎる陽気のせいだ。

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