DTM時代にシティ・ポップが重なる瞬間
ドラマの主題歌で知るJ-POP
毎日楽しみに見ていたNHK朝の連続テレビ小説「虎に翼」が最終回を迎えた。主題歌は米津玄師の「さよーならまたいつか!」。半年間毎日タイトルロールでワンコーラス流れるのを聴いてきたけれども、嫌になることも飽きることもなかったのでドラマに合った主題歌だったんだと思う。
普段邦楽を聴かない私がかろうじてJ-POPのトレンドの変遷の一端を知るリソースがドラマの主題歌だ。日本のドラマは主題歌が基本邦楽(ごく例外的に洋楽になることはなくはない。オリビア・ロドリゴのVampireが深夜ドラマの主題歌になったりもしたし)
なのでドラマを見ていると自然と耳に入ってくる。その際に楽曲の好き・嫌いは普段洋楽を聴いてる時とは違って、あくまでもドラマ全体を支配するトーンに合っているか、単なる抱合せタイアップ、主役の人、またはそこの事務所所属のアーティストの曲だからアサインされたの丸見えみたいなのは興ざめだが、ドラマのオープニングやエンディングに流れた時に映像やストーリーの発信するものを増幅させるような作用ができる楽曲なら、いい曲に聞こえるし毎話ごとに流れてても聞き飽きない。今回の米津玄師の「さよーならまたいつか!」もそういう曲の中のひとつだったと思う。
シティ・ポップかDTMか
最終回ではオープニングでフル・コーラス流れたのでブリッジ部分を初めて聴いたのだが、生音っぽさを全然出してなくてちょっと驚いた。というのも、彼は元ボカロPというバックグラウンドだからDTMでの曲作りをしてきた人だろうけれども、これだけ売れてたら予算もバキバキあるんだからラグジュアリーなスタジオで人間雇って生演奏させていいエンジニアに奥行きのあるミックスをしてもらうのなんて超余裕なはずだから。それが機械的に作ったサウンドで音数多くして厚みをもたせるDTM的な手法を楽曲のクライマックスに持ってくるのか、というのがJ-POP全然知らん勢の私のびっくりポイントだったのですが、それと同時に、これって世界に広がった80年代の日本のシティ・ポップ・トレンドを取り入れた結果なのかな、と。
もはやLo-Fiとさえ呼ばなくなったDTM
近年、米英その他の国もそうだけど、ギターやピアノで曲を書いてるDIY系の、Z世代のシンガー・ソングライター達はレコーディングの時もDTMでオケを作っていたりする。ミレニアル世代だったらデモ音源はDTMで作っても、レコーディングは友達のつてを頼って誰か人間を連れてきて弾いてもらってたけれども、Z世代はリリースする音源もDTMで作ってたりする。そうした音源はSpotifyなどで無数に配信されていて、そういうトレンドなんだという理解をしているとこの部分のサウンドが機械的過ぎるみたいに気になることもなくなる。慣れってすごいと自分でも思うのだが全部打ち込みで済ませた音でも違和感なく聴けている。
DTMとネット発信のハイブリッドで増殖したDIY
ここ何年か、私はDIYシンガーソングライターを積極的に聴いているのだけど、彼ら彼女らの特徴として、バンドを従えてレコーディングしないせいか、楽曲の振り幅が広いという部分が挙げられる。曲作りからアレンジ、レコーディングまでの間に関わる人間が少ないせいだろうか、一定の方向に収束していくことがあまりなく、新曲を出す度に「前作と全然違う?!」というのが半ば当たり前化していて、特定のジャンルで語るのが難しくなってきている。
その中ではDIYと言っても、インディー・レーベルとの契約はあってレーベルからリリースしているアーティストではあるが、ここ数年私が注目しているJordanaがもうすぐ新作をリリースする。前作の仕上がりがとても良く、それまでに比べると大きく飛躍していたから次回作には特に期待していた。
2024年10月18日にリリースになる新作Lively Premonitionから何曲か先行リリースされているのだが、それを聴いて最初は「え、そっちに行く?」と思ったのだが
先行リリースの3曲を通して聴いてみて、シティ・ポップのトレンドって私が思っていたより全然深く潜行していて、こんなところにも根を下ろしたのか、という結論に至った。
そもそもシティ・ポップって、80年代って
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