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わたしは夢をつくっている

#私にとってはたらくとは


「私たちは夢をつくる仕事をしている」

2015年、私は21歳で。新宿の隅、小さくて古い編集部にいたころ。7年経った今も大切なひとが私に放った言葉だった。その瞬間、編集者は天職かもしれない、と思っていたものが、天職だ、という確信に変わった。私は自分の夢も誰かの夢も、つくりたいし叶えたいのだ。願ってばかりじゃない。祈ってばかりじゃない。この身体すべてを使って。

歴史のあるファッション雑誌の編集部で編集アシスタントのアルバイトをすることになったのも、私の夢の、仕事の、始まりだったのかもしれない。インターンで行った2週間で、想いの丈を、のちに師匠になる金髪ベリーショートがトレードマークの女性編集者に伝えた。

「あなたの考え方も想いも、この雑誌に必要なの。だから、アルバイトしない?」

とその人がインターンが終わったときに言ってくれた。とても嬉しかった。何かの入り口、扉が開いた音がした。夏のインターンが終わり秋になったころ、正式に決まって働くことになった。当時の編集部は激務で、学生バイトとはいえ、休みもなく働いた。リースに撮影、原稿。他にもさまざまな仕事をさせてもらった。同時期に、別の編集部に入った同級生の男の子は「リースとか雑用じゃん、つまんない」と言っていた。嘘でしょ、と思った。仕事が雑用だったことは私には一度もなく、全て楽しくてやりがいがあった。リースも回った先でプレスの方と話す時間が好きだったし、撮影現場も勉強になることばかり。今でも、テープ起こしやスタジオ探しでも楽しいと思えるし、つまらないと思ったことがない。本当に、私にとって、天職なのだろう。

冬になって、寒い夜の0時近くになった。そろそろ帰るか、と最後の作業をしていたとき、何かの話の流れで、師匠が「私たちの仕事はね、この雑誌に載るのが夢だった、って人の夢を叶えられるの。夢をつくることができる」と言った。忘れられない言葉になって、私の人生を支えている。

春、私は就職活動をするようになって編集部に行けない日々が続いた。編集長から辞めるよう言われ、泣きながら師匠に連絡した。なんとか辞めないで続けられるよう、幾つもの企画書を書いたが、それでも辞めるよう言われたのだった。4大を出て、アルバイトで働くのも親に悪いというのが当時の心境だった。就職先はあっけなく決まった。嬉しい気持ちよりも、虚しさや辛さの方が大きくて、就職してもしばらく、2年以上は、編集部に戻りたくて仕方なかった。

編集者に戻りたくて悔しくて辛かったころ、前の編集長と渋谷まで15分ほど歩く機会があった。悩みを話す。同期と合わないこと、服が好きだけれどみんなの好きとは違うこと、伝える仕事がしたいけど今はできなくて歯痒いこと。すると、

「あなたは選ばれた人。伝えるってことをね。編集者に必要なもので、必ずあなたは人に伝える仕事ができるわよ」

と真っ直ぐな瞳で言ってくれた。私は伝える仕事をすべき人間なのだ。そう確信できたから、会社内の異動希望を出して好きなアートの部署へ移動した。誌面ではないけれど、伝えるという仕事ができた。とても楽しい時間だった。

働くことに夢中だったから、身体のことを考えられずにバランスを崩した。好きな仕事も好きなようにできなかった。上手く働けなくて泣いてばかりだったが、2021年の春、霧が晴れたように、もう一度好きな仕事ができるようになった。

今、私はウェブマガジンの編集者として働きながら、師匠の働く雑誌でたまにライターをしている。伝える仕事に戻ることができた。私の伝えたい、という夢が叶ったと同時に、何かを伝えたいと思っている人の場を、夢を、つくることができている。

働くのはきっと楽しいことばかりじゃないだろうけれど、ずっとずっと、大切な光を。信じて追い求めていたい。諦めたくないし、未来はいいものだって、生きていたらいいことがあるって、希望を持っていたい。そして働くのは一人じゃできない。一人のときはもちろんあるけれど、みんなでつくる。人を大事にしたいし、感謝を持っていたい。

夢を与える、そんな仕事を、私はしている。

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