長田の区画/奥の家について
とある勉強会にて建築家松岡篤さんの「長田の区画/奥の家」を見せて頂いた。これは一家族が住むための住宅を計画し、その住宅が成立するように、親族が所有する土地を分筆するというプロジェクト。松岡さんは土地家屋調査士でもあり、境界確定・分筆・設計監理を一気通貫で行う。(余談だが、土地家屋調査士は一級建築士より難しいらしい。)
出来形となったのは、旗竿の区画・家形の立面・平屋の内部空間であった。勉強会では内部空間よりも区画と立面が話題となった。区画を描くことの抽象性と立面の抽象性が目を引いたからか。
区画は、既存家屋を適法にしつつ、新規家屋の接道を満たし、分筆後の一団の土地の担保性を上げるために、鈎形の路地をもつ旗竿地となっていた。制度的には変形地であるが、実空間としては小集落のような配置である。制度と空間がそっぽを向いている。
立面は、銀色で、家形で、窓が一つだけ開いていた。クライアントのご主人が立面にこだわりがあり、松岡さんは抽象的な佇まいで応えたそうだ。1970年代的な構えである。立面の背後にある内部空間は木質で優しい。立面と内部空間がそっぽを向いている。
このプロジェクトを具体/抽象で仕分けると、区画と立面は抽象、既存建物の立面・建物間の外部空間・新規建物の内部空間は具体である。プロジェクトは抽象と具体が乖離し、並置され、表裏一体となっている。抽象と具体をそれぞれ見つめる松岡さんの眼差しに個性を感じる。
ところで、美術史家ヴォリンゲルの「抽象と感情移入」という本を読み始めた。少し引用させて頂く。
造形芸術において、抽象衝動と感情移入衝動の二極があって、生命に依存するものから純化するのが抽象である、と言っていると思う。この抽象が先ほどの区画と立面に対して行われていて、自律したものにならしめている。区画にも立面にも感情移入はしていない。(その生成過程にはウェットな人間社会が介在しているそうだが、出来形としてはきわめてドライである。)
いまいちど同書から引用させて頂く。
抽象にとって空間は不純であり、平面にしてこそ純粋になる、というようなことを言っていると思う。ここで先ほどの区画と立面が平面であることにハッとする。具体の外部空間や内部空間と決別した抽象の区画と立面は、古代の文化民族による造形芸術であるそうなのだ。
現代建築を見渡すと、部材や材料が表現され、あるいは記号が復古され、環境や社会とのネットワークが礼賛されている。古代や近代の大文字の建築からすると、とても具体的で次元数が多い。「長田の区画/奥の家」のきわめて次元数の低い抽象化は現代建築に対して反旗を翻している。
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