キャパシティ拡張中
高知県で穴場というヨガスタジオを営んでいます。
秋分を過ぎ、四方に大きな窓がある穴場では、心地の良い風が吹く今日この頃。
今回のジャーナルのタイトルは「キャパシティ拡張中」。
他者の視点や価値観に積極的に触れる。
一見受け入れがたい意見や問いかけをスルーせず、なるべく誠実に答える。
みたいなことを最近頑張ろうと思っています(必ずしも実践できているわけではない)。
他者との交流の中で、自分とは全く異なるものの見方や価値観に触れたり、ときにはズキュンと痛いところを突かれたりすることがあります。
そんなときどう行動し、何を考えるか。
最近の出来事を例に挙げてみます。
ここ1年近くで仲良くなった同い年の友達がいます。
お互い近いエリアで高校生まで暮らしてきたので、遊んできた場所、見てきたテレビ番組、流行っていた物事、ノリが近いというか、下地が近しいものでできているような気がしています。
どちらも音楽が好きで、よくお互いのiPhoneから音楽を流し合って何時間も遊ぶことがしばしばあり。
育ってきた時代は同じだけど、聴いてきた音楽は結構違っていて、幅広いジャンルだけどそれぞれの音楽への偏愛を惜しみなく流し合う時間はとても新鮮で面白くて楽しい。
そんな友人と先日朝まで音楽を流し合っていたときのこと。
途中でわたしが流していた曲をさえぎり、
「お前の選曲はセンスが無い」
と言われた。
「お前はアラブ音楽とクラシックに逃げている」
とも。
わたしは普通にキレました。
うるせー馬鹿って思ったし好きな音楽をかけることを逃げと表現されたことに腹が立った。
ていうかそこまで言う?普通。とも思った。
でもよく考えたらその友達ってそんなに普通な奴じゃなかったし、選曲のセンスに関しては信頼がおけるし、なんといっても友達だから。
そのときはキレ散らかしたものの、一度立ち止まって、痛いところを突いてきたこれらの言葉について、自分がどうとらえたのかを以下のように考察しました。
センスが悪い
→「この人はどんな曲を選ぶか」のセンスのどうこうって、そういえば今まであまり考えてこなかった。他者においても自分に対しても好きな曲を好きなタイミングで聴けばいいと思っていた。
でもたしかに、「誰かにこの曲を聴いてほしいな」と思ったとき、雰囲気やシチュエーションやタイミングを選ぶのは結構大事で、個人対個人ではなおさら。それはつまるところ、相手をどれだけ思いやれているかというところにつながる。
思い返せばわたしにはそういう感覚が欠けている。
きっとわたしのそのときの選曲には相手への思いやりが足りなかったんだろうな。わかる。「何が何でもこれが好き」で押し通して、周りを置いてけぼりにしてしまう、みたいな、そういうところがわたしにはあります。
アラブ音楽とクラシックに逃げている
→好きな音楽のジャンルを流すことは逃げなのか?と思ったりもしたんだけれど、そう言われたということはそんな風に映ったんだと思う。それはただただわたしがアラブ音楽とクラシックを流していたから出た言葉じゃないんだろうな。前後の曲の流れとか、会話とか、その時の雰囲気も含めて、「逃げ」だったんだろう。
ことさら自分の人生のなかで長く深く接してきた音楽を流して、それを「逃げ」と言われることは悲しい。
同時に、長く深くといってもそれはたかだか知れている、という自覚もある。わたしより長く深くそれらの音楽に突き抜けている人がごまんといるわけだし。
その分野で突き抜けてすらいないのに、嬉しげにやたらそっちに行こうとするのって、たしかに逃げだよね。わかる。
考察終わり。
自分が抱いたことのない視点や価値観に触れたとき、思わぬ痛みに顔を顰めることがある。
一見受け入れがたい意見や問いかけは、はいはいと受け入れたふりをしてスルーしたくなるし、ときには攻撃や皮肉で返してしまったりもする。
それでも、一度立ち止まってそれらを眺めてみる余白を自分の中に持ちたい。
まあ誰に対しても、はさすがにわたしもまだまだ難しい部分はあるんだけれど、せめて顔をつき合わせて話す相手とは対等に対話ができるように。
キャパシティを拡げているところです。
きっとそういう心が波立つようなことは、自分1人でいるときには起きようのないものだと思うから。
他者との対話や接触があるからこそ生まれるサリエンシー。それらですら、反復を経て、時が経つにつれてサリエントでなくなる。
1人になって自分自身に問いかけることももちろん大切だけど、もっと他者とのぶつかり合いみたいなものを恐れずにいたい。
ヨガにおいても、1人で行う練習も、スタジオで誰かと一緒に行う練習もどちらも違った面白さがあります。
ひとりひとり異なる人生を送ってきた肉体が、同じ場所・同じフローで動くこと。
対話し反応しあいながら、有機的に健やかに変わっていく自分と、誰かと、出会っていきたい。
穴場がこれから先、誰かにとってのあらたな出会いの場所になっていくと良いな。