長編小説 『蓮 月』 その十七
その頃、唯は白山神社の近くの旅館に泊まっていて、明け放れた窓からの山の静謐な息吹を感じて、唯のこゝろはこの上なく落ち着いていた。
白山は神の山。 地元の人達は「シラヤマ」と呼ぶ、又年に数回蒼きオーラを纏う日があると聞く。神社の近くまで来ると山々の神気に包まれて、唯は敬虔な気持ちになった。
遠回りしてこの地に辿り着いたのは、ほんとうにお導きなのかも知れないと強く想い始め・・・小さい頃親子三人で詣でた記憶は殆どないが、この白山の神気溢れる濃密な空気は懐かしさを煽られてしまい奇妙な高揚感に包まれていた。 暗くなる前に、此処を出て参集殿に行かなければならないが、まだ、時間はたっぷりある。宮司からの伝言で一つの祝詞を出来るだけ覚えるようにと言われていたので、神具店によりその祝詞を買い求めていた。通常朗詠するには一五分前後かかると言われている。長らく朗詠することがなかったが、数回の読み込みで、概ねは頭に入った。丁度そのタイミングで静一から電話があった。
「はい、唯です・・・ごめんなさい、連絡できなくて・・・」
「ああ、いいんです・・・そのことは・・・それより、今白山にいます?」唯は驚いた。「どうして此処がわかったの?」「初音のお母さんから・・・君のことをすごく心配しているよ」「お母はんが静一さんに・・・」
「細かいことは、そちらに着いたら話すから、今泊まっている旅館を教えて」「ええ、今から来るの?」「そう、一人で禊ぎをしてはいけないって・・・僕もいくよ」
又々、急転回な話になって、唯は驚きと喜びとそしてちょっぴり不安な気持ちにもなった。
しかし、初音と会ってまで心配してくれていて、白山まで来るという静一の一途さに、唯は只々そのこゝろ根に胸が熱くなった。
「金沢まで約三時間、金沢からこのS旅館までは車で約四十分・・・乗り継ぎの時間を考慮したらそれでも四時間はかかりますなぁ・・・夜の七時位ならなんとか間に合います」「わかりました、大急ぎでそちらへ行きます」「こちらに来はるということは、一緒に禊ぎをを受けるということですなぁ」「はい、その通りです」「そしたら、八坂神社の近くの神具店によって、○○の祝詞を買い求めて、それを出来るだけ暗記して下さい。又ポケット懐中電灯をお願いします」「わかりました・・・後準備するモノはないですか?」「後は、こちらでも用意できますので。それだけお願いします」「じゃぁ、七時に旅館で」
唯の声は弾んでいたように感じて、静一は嬉しかった。又唯も静一の落ち着いた声で励ましていてくれていると感じて・・・その喜びが心身を駆け巡り更に熱くなった。
京都駅からサンダーバードの直通列車に間に合って、シートにもたれながら、宿題?の祝詞の暗記を始めた。黙読しながらこの祝詞が神道に於いては、非常に重要な祝詞だということが感じられた。静一は、三十代前半に友人の小学生の子供が引っ越しで登校拒否になり、父と一緒に何かを学ぶ時間を持てば、それが切っ掛けで・・・という想いで、その街で色々探した。毎週金曜日の夜七時から、親子でも学べますというチラシのフレーズに引き寄せられて友人は太極拳を学ぶことになった。
しかし、彼の仕事は忙しく、奥さんも後二人の子供を視なくてはいけなかったので・・・結果、静一が助っ人として一週置きに子供と一緒に太極拳を学ぶ事になった。太極拳の先生は、大変優しい先生で、他にも来ていた親子の為に、子供が動き易い<長拳>と呼ばれる中国武術の初歩的な「套路」を時間を割いて教えられた。套路は、連続的な攻撃や防御の動作、立ち方、歩き方、呼吸法などを組み合わせた一連の動作を言うのだが、子供達には素早い動きのあるこちらの方が夢中になれたみたいだった。静一は、太極拳のゆっくりした動きと呼吸を合わせた動作が、とても好きになり嵌まってしまった。そして半年、友人の子供はなんとか学校へ行くようになった。静一は、<氣>がわかる体質となり、同じ太極拳の仲間の人から、気功の世界に導かれた。それからは、ひたすら氣や癒やしに関わるセミナーワークショップを週末に受講した。
それからは、ヒーリング・スピリチュアル・ニューエイジの様々な分野のワークショップの受講で輪が広がり、その中で<古神道研究会>なるものにも参加するようになった。
そして、或日、有名な神社の宮司を歴任されたK先生に師事することになり、三輪山のお滝場で禊ぎを受けたことがあった・・・だから、唯が大神神社の巫女をしていて、禊ぎを受けた話を初音から聴いた時は、ほんとうになんという縁だと驚いた。
二人には、視えない糸で結ばれている・・・これは必然であって、偶然ではないと・・・今まで以上に唯のことが愛しく想われた。
そのような想いがあるので、最初の一時間は、あまり言葉が入ってこなかったが、これはおそらく一生に一度しかない、貴重な、また二人にとってもとても大切な事なんだと、
気を引き締めて、後の二時間は、祝詞の暗記に集中できた。途中で腹ごしらえを済ませておかなければと車内販売を待ち望んだが、休止されているのを知って我慢した。
金沢駅に着いたのは、夕方の六時を少し廻っていた。駅ナカで蕎麦屋に入り、山菜そばとおにぎり一個の早食いで、タクシーに乗り込んだ。タクシーの中でも更に暗記に努めた。ほぼ唯が予想した時間に宿に着いた。
玄関のロビーに唯が微笑んで静一を待っていた。人目も憚らず二人は抱きしめ合った・・・・・・お互い涙が溢れるほどこゝろが熱くなった・・・五日間の空白?いや遠くに離れているいると言うことをお互い軽視していた感はあるものの・・・ここまでとは想いもしなかった。
温もりが二人の離れた時間を一挙に氷塊させてくれた。唯の部屋に入ると、お茶を用意しながら、これからの段取りを唯は、楽しむようにゆっくりと話し出した。「お疲れ様でした」「はい、唯もお疲れ様でしたと言うより大活躍だったね」「ふふ、そうかも知れませんな・・・ありがとうございます」間を置いて、「今から、これからの段取りを話すね。八時になったら此処を出て、白山神社の参集殿に向かいます。名誉宮司の小林さまが翌朝の禊ぎについての大切な事をお話しになります」
日の出前に参集殿から禊ぎのお滝場まで、歩いて行き、日の出と共に禊ぎを始めます。
多分、この宿に帰って来るのは、七時前後・・・朝食を頂いて、改めて神社を参拝。又、宿に帰りタクシーで金沢駅。サンダーバードの直通列車で京都へ帰京です・・・ハードスケジュールどすなぁ・・・堪忍どすえ」「ううん、充実した時間になると感じているし、久々のお滝での禊ぎで喜びが一杯です・・・何と言っても唯と一緒だからね」「おおきに、おおきに・・・。海を視たい、日の出が視たい、海をずっと視ていたい、金沢の友人に会いたい、禊ぎを受けたいという流れは何かのお導きみたい感じております」
「遠くで暮らすことは・・・という歌のフレーズがあるけど、離れてみてしか視えないこゝろの働きがあることがわかった・・・でも、もう当分は願い下げだけどね・・・」
二人は微笑みのデュオを楽しんだ。互いに作務衣に着替えて、タオル・バスタオル・懐中電灯等をナップザックに入れて、用意を済ますと宿屋の係の人に神社の参集殿で一晩過ごすことになって、明朝の七時頃帰って来るので、それからの朝食にとお願いして、二人は宿を出た。
その十八に続く