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39年生きた女の半生を綴る。20年戦い抜いた線維筋痛症の人生②

ある、コールセンターで出会った2人の同い年の女の子
その子たちとの出会いで感じた「中卒」への劣等感。
【絶対に高卒は取ってやるんだ。という確固たる決心】

親に「あんたを食わせるお金はないよ」そう言われて「なにくそ」と思った。必死にアルバイト雑誌をめくり見つけたのは、コールセンターのアルバイトだった。

日差しが熱く、焼けるような日差しが降り注ぐ8月。
私は手の指先の痛みをこらえながら、必死に自転車をこいでいた。

必死の思いで面接会場へ行き、面接官の顔も忘れるほど痛みが強烈で、冷や汗をかきながら、何とかその場を笑顔で取り繕いながら、「合格」をいただいた。

アルバイト先のコールセンターは受電のお仕事だった。
コールが鳴りやまない時は、水を飲めないほど、多忙を極めるが、
コールが鳴らない際は、比較的穏やかな時間で、周りの人たちとも話す時間があった。

そこで話すようになった仲間たちと談笑していた時の事である。
みんなで学生時代の話をしていた。大学のころの話になった時、
適当に愛想笑いをしながら話を聞いていた。思い切って「私が学生時代の時は・・」そんなことを私が言った。
A子「ねえ、学生時代ってそれって大学とか行っていた子が使う言葉だよ笑」
ーーー 一瞬時が止まった。馬鹿にされた感覚はなかった。
でも、衝撃が私を襲っていた。頭は回らなかったけれど『中卒』という言葉だけが頭を埋め尽くす。
私は中卒私は中卒私は中卒わたしは・・・。ぐるぐるとその言葉ばかりが浮かんだ。

直接的にバカにされたわけじゃないけれど、悔しくて悔しくてたまらない気持ちになった。
「私は事情があって学校へ行けなかった。病気だったから」
---うんたらかんたら言い訳をするつもりなんて更々ない。
あるのは学校に行ってなくて「中卒」だという事実だけだ。
私の最終学歴は「中卒」---その一点のみ。

『絶対に出てやる。どんな形で合っても絶対に高校だけは出てやる』
私に確固たる決意が生まれた瞬間だった。

偶然見た番組。そこには定時制高校に通っている生徒たちが映し出されていた。
ほんとに偶然でした。偶然、テレビの前に座っているときに定時制高校での生徒たちの様子が映し出されていました。
「定時制・・?」自分の中で知らなかったわけではないけれど、選択肢としてはなかったものでした。
そこには学校に通いながら楽しそうに先生に質問したり、笑顔溢れる生徒たちの様子が映し出されていました。私に光が差したように思えました。
『定時制なら。こんなに楽しそうなら。こんな風に支えてもらえるならこんな私でも通えるかもしれない』
そんな風に思ったのです。

ーーー思った次の日には行動に移していました。
出身中学に連絡をし、定時制に通いたい旨を報告。
見事その年の4月、「県立船橋高校の定時制」の生徒になりました。

10歳以上も年の離れた子たちと一緒に学ぶ学校生活

同級生はみな10歳以上も年の離れた子たちでした。
中には20代の生徒たちもいて、その中に「はじめくん」という男性がいました。はじめくんは自ら進んで人を引っ張っていくタイプではないけれど、
気づいたら人に慕われて牽引しているようなタイプの男の子でした。
私は、「人を引っ張っていくリーダー気質」というものが全く持ってありません。本当にゼロです(笑)
本当は年齢も一番上だったので、そういった役割をしなければ
なならなったかもしれませんが、私には向いていませんでした。

はじめくんは頼りやすいというか、話しやすいというか。
年は下の年齢でしたが、私は随分と頼っていたような気がします。。。勉強でわからないところがあれば何度も教えてもらっていましたし、
私は参加できませんでしたが、「勉強会」というものも開いていたようでした。

結果論として行ってよかった定時制

なんだかんだと大変なことはあったけど、結果論として行ってよかったと思っています。
テスト勉強をする際、手の指先が痛すぎて勉強できなくて赤点・・なんてこともありましたが、授業で行ったバスケやサッカー。運動と呼べるものとは縁のない生活をしていた私にとっては、とても新鮮なものでした。
中でも校庭の中を走るマラソンの授業。。。はあはあと息を絶え絶えにしながら、心臓が波打つ感覚。。。
「ああ、生きてる」って思えました。私、生きてる。って。
その感覚がすごく嬉しくて楽しくて、とめどない感激を覚えたのを憶えています。本当にすごく楽しかった!!
後に高校卒業の学歴をいただき、今の会社に出会うのです。

働いて10年。未だに新人のようなやらかしをしますがそれを受け入れてくれる上司たち。

こればかりは出会いに感謝だと思います。
「上司ガチャ」なる言葉もありますが、出会える人を選べるわけではないですからね。
ーーー私の親愛なるMさんだけではない、FさんやKさんという上司にも感謝をしております。
色々ご迷惑をかけながら、日々働いております。

Mさんに感じる不思議な感覚。心が通じ合っているような感覚。

上司のMさんはすごく不思議な人です。
私自身は割と「普通」と呼ばれるタイプの人間ではなくて「変わっているタイプ」だという自覚があります。
人に言われたわけではないけれど、自分でそんな気がするのです。
そんな経験があるので、あまり人に受け入れてもらえたことがありませんでした。口下手であまり人に伝えてこなかった、という経緯もありますが、「人に受け入れられる」というものが稀で、自分の中に無いものでした。
上司と部下、単なる職場での関係性です。
ですが、「好意」と呼ばれるものの他に、Mさんに対して他の感情があるような気がしてなりません。

現在の私について。英語を勉強するのがすごく楽しい!将来は翻訳家になりたい。
長い間、痛みと戦い続けて、『常に戦闘態勢だった』私でした。
ここ10年くらいは、痛みからも解放されて自由な時間だったように思えます。
けれど『お前は自由だ!』といきなり世間に放り出されてもなにをしたらいいかわかりません。
今まで痛みが体を縛り付けていたのでいきなり世間に出されても、
自分が何をしたいかだとか、何をするべきなのかとか。全くわからず、
しばらくは何もわからない赤ちゃんみたいな時間が続きました。

自由な時間を生活する中で出来た【夢】
叶わないかもしれないけれど叶えたい、レディガガさんとの対談

学校にいるときはさほど英語が好きではありませんでした。
でも最近YouTubarのkamioくんの動画を見ているうちになんだかフツフツと英語をしゃべりたい。外国のお友達が欲しい。と思うようになりました。
最近レディー・ガガさんが「線維筋痛症」だという事を公表されました。
ーーーすごく夢は果てしないです。でもすごくあれだけ精力的に活動されているレディ・ガガさんは、どんな思いでこの病気と向き合っているのか、日々を過ごしているのか、お話ししたくなりました。
無理かもしれません。でも、ガガさんとお話ししてみたくなりました。

最後に・・。病気を抱えながらでも最後に『笑えれば』いいんじゃないかって。
これまで紆余曲折ありました。
プロジェリアという難病を抱えたアシュリー・ヘギちゃんが言っていた言葉があります。
『私は生まれ変わってもまた私に生まれたいと思うわ』--私は衝撃でした。こんな大変な病気を抱えてるのに、そんなこと言えるなんて。。。
アシュリーちゃんには頭が下がる思いです。
私は私でまた生まれたいでしょうか。
---この痛みを「線維筋痛症」という痛みを抱えてまた生まれたいかとするならば答えはNOに近いでしょう。
けれどこの病気だからこそ感じられるものもあったし、学びもあった。
けれど想像を絶するこの痛みをまた経験したいなんて、私はとてもじゃないけれど思えません。
最後に「笑える」人生を。私はこれからも送ってゆきたいと思います。

「死にたい」想いは否定できない。
人の辛さなんて千差万別です。
「私は病気だったからこんなに辛かった」なんてことは甚だ言うつもりはありません。
逃げたくて死にたいです。痛いんですからね。
痛みと呼ばれるものはサインだから、ほんとうにどうしようもないです。

この病気が原因で自殺された日テレのアナウンサーの鈴木君江さんという方がいます。
彼女はこの痛みを苦に自宅のマンションから飛び降りました。
ーーー私は痛いほど気持ちがわかります。私だってもし自宅が団地の1階でなかったら行っていたかもしれない。
大げさではない、ほんとうに線維筋痛症は本人を追い詰める病気だと思います。
怖いです。痛みでほんとうに何も考えられないのです。

もし死にたい気持ちがあったのなら、否定しないでほしい。
今まで本人は本当によく頑張ってきたのです。頑張ったうえで死にたいんです。
だから否定しないで。
ーーー否定しないで。といいながらも私は止めることができないです。
だって頑張ってきたのだから。

なにも言えない。だって頑張ってきたんだもん。言えないですよ。
でも寄り添うことはできる。私は、側にいることができる。
だから、『こんな人間もいるんだな』って思ってほしい。
生きて。生きてほしい。側にいるから生きてほしいってそう思います。

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