『檻の中より』

東英大学政治学部国際政治学科二年 溪聡太郎
授業 文学(1) レポート課題

問 自分の経験を小説の形式で表現しなさい。

「あれ」
 ホウダは驚いた表情をして言った。15年ほど、ホウダとの交流は続いているが、ホウダがこんな風に驚いているのを僕は初めて見た。
「今日は一人で来たの?」
「はい。父さんに、船借りて」
「じゃあ、もう一人で操縦できるんだ」
「はい。取りました、免許、なんとか」
「そうなんだ、おめでとう」
 ホウダはそう言うと、いつもと変わらない笑顔に戻った。
「ま、上がってよ」
「失礼します」
 ホウダは右肘の小さなフックで器用に引き戸を全開にし、僕を招き入れた。扉の中に入ると、聞こえていた蝉の鳴き声がほんの少し和らいで聴こえた。僕は後ろ手で引き戸を締める。
 思い出せば、ホウダの住む家の中に入った回数は片手の指で数えるほどしかない。父さんは本島から運んできた物資をホウダの家の中まで運び入れるが、僕はその間家の縁側に腰掛けて待っていたり、家の周りを散歩することが多かった。父さんとホウダが物資の受け渡しの際にどんな会話をしていたかまでは把握していなかった。
 家の中は当然ながらしんと静まり返っていた。居間に通されたが、家具もほとんどなく、部屋の真ん中に長方形のちゃぶ台があり、部屋の隅のデスクにパソコンが置かれているだけで、他には何もない。おそらく、ホウダの書斎には毎月大量に運び込む書籍が立ち並んでいたのだろう。
「座ってて。飲み物持ってくるから」
「あ、手伝います」
「いいよ。一人でできる」
 ホウダは居間を後にした。僕はちゃぶ台の長い辺の方に胡座をかいて座った。
 居間の障子は開け放たれ、縁側に取り付けてある雨戸も空いていた。夏の空気と居間の空気が一体化している。暑いが、まだ本当の夏は到来していない。今年の夏もまた暑くなる、という予感が、南風に乗って先に貝楼諸島にも到着していた。
「おまたせ」
 居間に戻ってきたホウダは肘にお盆を乗せていた。
「ごめん、受け取ってもらえるかな」
「はい」
 僕は立ち上がって、お盆に乗っていたコップとマグカップを手に取り、マグカップをホウダが座る場所に、コップを自分の近くにそれぞれ置いた。
「ありがとう」
 ホウダはお盆を畳に起き、膝を折りたたんで静かに正座した。いただきます、と言って僕はコップのお茶を一口飲んだ。自分が思っているよりも、口の中が渇いていた。冷たいはずのお茶は口に含んだ瞬間すぐに熱を持ち、喉を下るというよりも、歯茎全体に吸収されるように無くなっていた。乾ききった土に落ちた雨の最初の一粒を思い起こさせた。
「それで、今日はどうしたの」
 ホウダはお茶に手をつけない。真夏の予感とは対照的な、冷ややかな笑顔を浮かべながら僕を見た。
「今日は、話をしにきました」
 蝉の鳴き声が急に大きく聴こえた。僕の声が、蝉の声に掻き消されそうになる、ように聴こえる。でも、実際はホウダとの距離を考えれば、声が掻き消されるはずなんかない。
「どんな話だろう」
「大事な話、です」
 今度は蝉の鳴き声をも搔き消すくらいの大きな音が自分の体の内部から響いてくる。どん、どん、どん、とその音のリズムは次第に早くなった。鼓動だ。心臓の鼓動が、どんどん大きくなって、僕の体を満たしている。体の内部から鼓膜を叩き、外へ外へと押し広げようとする。どんどん、どんどん。
「この島から逃げましょう」
 ここに来るまでに何回も何回も唱え続けた言葉だった。最初にこの言葉を頭の中で唱えたのはいつのことだったのだろうか。ホウダは、表情を変えなかった。この島に一人で来た僕を見て驚いたホウダは、この言葉には驚きを見せなかった。
「一週間くらい生活できる物資を船に積んできました。今から、この島を脱出しましょう。本島には戻らないで、本土に行って、警察に届け出るんです。島民から不当に監禁されている、無人島での生活を強要されているって。そうすれば、警察も黙ってはいないはずです。住む場所も、最初は施設での暮らしになるかもしれませんが、あなたほどの学識がある人だったら、就ける仕事もたくさんある。こんな小さな島で、一人で暮らし続けるなんて、おかしい」
 言い終わってから、自分が言ったことを一つ一つ点検する。今まで考えてきたことと一致しているか。論理の綻びはないか。ホウダを貶めることは言っていないか。でも、どれも正解はわからなかった。僕の言葉が持っているはずの正しさを信じた。
 ホウダはゆったりした動作で右肘のフックにマグカップの取っ手の部分を引っ掛け、自分の口元に運び、小さくお茶を口に含んだ。そして、音も立てずにマグカップをちゃぶ台に置く。
「とてもいい提案だと思う」
 ホウダは言った。
「確かに僕は20年以上この島から出たことはない。僕以外誰一人として生活していないこの島に幽閉されているというのもあながち間違ってはいない。君が言っていることに間違いなんて何一つない。僕はそう思う」
 ホウダは表情をまったく変えずに言った。笑顔の温度を変えずに。
「ただ、僕はなんの意味もなくこの島で暮らしているわけではない、ということは君も知っているよね」
「はい」
「この島は1600年前から代々の『ホウダ』が居住することで、貝楼への帰属を証明してきた。本島から100キロ以上離れたこの小島が貝楼諸島の中の一つである、ということを証明している」
「でも、そんなの昔のしきたりじゃないですか。貝楼諸島はもう古代のような独立国家ではありません。この国に併合された、一つの地域です。この島だって、貝楼諸島に帰属するばかりか、もうこの国にまるごと帰属していることは法的にも証明されているはず。今更居住実態がどうとか騒ぐ人はいません。あなたが、ここに住み続けることに、」
 ホウダを見る。
「意味はないんです」
 ホウダの表情は、変わらない。
 胡座のかいてできた足の隙間に、汗が、はた、と落ちた。
「あなたの生きる権利は不当に剥奪されている。職業選択の自由だって、住居の自由だって侵害されている。あなたは、両腕がないということだけで、この島に幽閉されている。それ自体、障害者差別だ。両腕がないということで、住む場所や職業が他の人によって決定されるなんて、おかしい。住まいは立派かもしれないけど、この島は、あなたにとっての牢屋だ。あなたを拘留するための檻だ」
 ずっと考えてきたことだった。ずっと体の中に整理できない感情を抱えたまま父さんの手伝いをしていた。父さんは黙ってホウダに物資を運び続けた。それを良いことだとも悪いことだとも評さなかった。父さんはホウダに笑顔を見せることはなかった。見せる必要がなかったからだと思う。父さんは情でホウダと交流していたのではない。そんな父さんの背中に向かって、「なぜこんなことを続けるんだ」と問いかけることはできなかった。
「あなたはあなたの人生を、自分で切り拓くべきです。その権利がある。そして、その力がある。あなたはこんなところで幽閉されるべき人ではないんです。それは、あなたにもわかっているはず。僕はあなたがどれだけ勉強しているかを知っています。様々な分野の専門書を毎月仕入れて、研究に勤しんでいることを知っています。父さんだって知ってるはずだ。その研究を、思想を、もっと広い世界の中で深めていってほしいんです。だから、僕と一緒にこの島を出ましょう。今だったら、誰にもばれずに本土にたどり着けます。気候も良い。風もちょうどいい。こんなチャンスありません。だから」
 コップの氷が傾く音が居間に響く。
「ありがとう、と言うべきなのかな」
 ホウダの表情は、変わらない。
「僕のためにどれだけ勉強してくれたかということがとてもわかる。たまたま勉強してきたことが僕に関するあれこれに繋がったのではなくて、僕をこの島から救い出すためにいろんなことを学んでいるということが。その気持ちはとてもありがたい。これだけの優しさというものに直接触れた経験がないから、少し驚いてる」
 驚いてる、とは言うものの、表情は変わらない。
「少し視点を変えて話をしよう」
 ホウダは微かに咳払いをした。
「君からはとても大きな慈しみを感じる。僕に対する慈しみだ。僕を救い出そうとする優しさ、慈しみ、慈悲深さ。これは紛れもない本物の優しさだ。じゃあ、この優しさの源泉はなんだろう。どうして君は、僕に対してこれほどの優しさを傾けてくれるんだろうか」
 ホウダから問いかけられるということを想定していなかった僕は、即座に何かを言うことができなかった。
「それはおそらく、僕を同胞と認めてくれているからだ。わかりやすい言葉で言えば、仲間かな。同じ貝楼諸島に住む仲間、同じ国に住む同胞だからこそ、そんな優しさを傾けてくれる。そうじゃないかな。僕と君に血の繋がりはもちろんない。同じ学校にも通ってない。同じ仕事もしていない。じゃあ僕と君を繋ぐものってなんだろう。それはこの貝楼諸島の一員であるっていう繋がりだろう」
 僕は深く息を吐いた。ホウダは、満足そうに笑う。
「君は賢いよ。そうだ、じゃあ君の優しさの源泉となっている同胞意識はどうやって形成されているのだろう。何によって形成されている?」
「ホウダが、この島に住んでいるということ」
「そうだよ。君が僕を檻から救い出したいと思うためには、僕が檻に入っている必要があるんだ。君が僕に傾けてくれる優しさは、僕が幽閉されているからこそ生まれる。僕がここにいなければ、優しさは生じなかった。そうじゃないかな」
 口が、渇く。
「それこそが、僕の役目なんだ。同胞意識を生まれさせるだけではない。同胞意識から、同胞に対する慈悲、優しさを生み出す必要がある。そして、その優しさが、社会を動かす連帯感になっていく。だから、君が僕を救い出そうとするのは、この制度が正常に機能していることの証明に他ならないんだ。君が僕を救い出そうとすればするほど、僕がこの島に幽閉されている価値が高まっていく。正比例の関係でね」
 蝉の鳴き声が、いつの間にか聴こえなくなっている。
「そもそも、君は檻の外にいるつもりなんだろうけど、正確に言えばそれも違うよ。君も僕と同じ、檻の中にいるんだ。檻の外から僕を眺めて、外に出そうとしているんじゃない。檻の中で、僕を檻の外に救い出そうとしている。じゃあ、この島から出ることが、果たして檻から出ることになるんだろうか。牢屋から僕が救い出されることになるんだろうか。僕がここからいなくなれば、僕は、僕たちは自由になれるんだろうか。檻の外というのは、どこにあるんだろうか」
 蝉の鳴き声が聴こえなくなる代わりに、今まで僕の中で築き上げてきたものが崩れ去る音がした。
「それに、この島に住んでいることと、僕が両腕を持たずに生まれてきたことはまるで関係ないことだよ。たまたまそうだっただけだ。ホウダの役割は、他の人でもよかった。たまたま先代のホウダが亡くなったところに僕が生まれた。それだけだよ。腕のことは後付けの理由だ。この世界ではいろんなことが偶然で運営されている。この制度も、その偶然の一つで成っただけだ」
 声が出ない。声に出すべき、言葉も見つからない。また畳に、はた、と雫が落ちる。それは、果たして汗だったか。それとも、涙だったか。僕はそれを確認することもできなかった。
「君の優しさを否定するつもりは一切ない。むしろ賞賛されるべきものだ。僕の存在意義を、僕がこの島に住む理由を、君が君自身の身をもって体現してくれた」
 ホウダは微笑む。
「それに、君がこの島に一人で来られるようになった。こんなにうれしいことはない。初めて会ったとき、あんなに小さかった君が。言祝ぐべきことだ。おめでとう」
 ホウダはそう言って、右肘を僕に差し出す。肘に巻いてあるバンドには、小さなフックが添えられている。この家の家具は、両腕のないホウダが使いやすいように、すべて父さんが作ったものだった。父さんが作った家具でホウダは生活し、ホウダの生活が、僕の同胞意識を育んだ。無言の父さんの背中は、僕の思想にも、介入していた。
 なす術もなく、僕は右手を差し出し、ホウダの右肘をそっと掴んだ。真夏の予感とは裏腹に、やはりひんやりとして、つるりとした、美しい肘だった。

(了)

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