「イレーヌと漂いつつ」(12)

 昨日、ここにかかっていたはずのイレーヌは消えていた。名越さんの手によってかけられたはずのイレーヌが、いない。
 間違いなくこの場所だった。ここでイレーヌは寂しげに夕日に照らされていた。でも、今ここにあるのはヴァン・ゴッホの肖像画だった。最初にイレーヌと取り替えられた絵。禍々しくも美しい背景。鑑賞する者を睨め付ける視線。こんな場所に何をしにきた、と私に言っているように見える。
 ゴッホに別れを告げて、教室に足を向ける。朝の学校の風景は完全に元通りになった。廊下のきょろきょろと見回しながら歩く生徒は誰一人としていない。いろんなところから笑い声が聞こえる。元気な朝の挨拶が聞こえる。この笑顔や黄色い声の裏側には何があるのだろう。どんな葛藤を抱えながら、みんなは笑っているのだろう。ゴッホは、どんな葛藤を抱えながらあれほどまでおぞましい自画像を書いたのだろう。自らの才能に対する苦悩そのものを書こうとしたのか、それとも苦悩の所在を探求するために執拗に自画像を書いたのか。ドガは、可憐な踊り子たちの中に見出したのか。フェルメールは、窓から差す柔らかい日差しの中に何を求めたのか。ルノワールは、あの少女の憂いを帯びた瞳の中に何を描き出そうとしたのか。あの少女がこれから味わうであろう苦痛をも見抜きながら、あれだけの可愛らしい憂いを描き出したのか。
 教室に、名越さんが来ていた。名越さんは何をするでもなく、右腕の肘を机に置き、掌で自分の頰を支えながら、黒板に目を向けていた。まっすぐな瞳は、やはり変わらない。イレーヌを抱えて階段を昇っていたときの瞳と同じだ。
 名越さんは何が欲しかったのだろう。地下で眠るイレーヌを引っ張り出し、再び全校生徒の視線に晒すことで、何を表現したかったのか。でも、その企みは成功しなかった。イレーヌは消えていた。おそらく、イレーヌは地下に戻ったのだろう。誰かが戻した? 絵が勝手に動いた? その疑問に対する答えはおそらく手に入らないのだろう。あえて言うとすれば、やっぱり、イレーヌは、あの場所が気に入ったのだ。自分の居場所を手に入れることができたのだ。
「名越さん」
「おはよう」
 私は名越さんの隣の席に座って、黒板に視線を向けてみた。
「名越さんにも、悩み事ってあるの」
「なに、藪から棒に。朝一番の話題としては適してない」
「気になっただけ」
「あるように見える?」
「見えない。名越さんはいつでもそうやって前を向いて、自分がどうなるかっていうイメージを見据えてるように見えるよ。悩んでる暇があったら、歩いた方がマシじゃん、って感じ」
「そうな風に見られてたか」
「当たらずとも遠からず?」
「全然違う」
「ほんと?」
「私には何も見えてない。ただ、偶然目が頭の前方についてるだけ。後頭部に目がついてたら、私はずっと後ろを見てたはず」
「でも、自分の目標は持ってるでしょ?」
「自分の意志で持った目標かどうかはもうわからない。自分が決めてるように思ってるけど、他の人に持たされてる目標かもしれない。その目標だって正しい目標かどうかはわからない」
「名越さんでもそうなんだ」
「御影さんは? 御影さんには何が見えてるの?」
 名越さんは私に視線を向ける。
「私にも、私の先には何も見えない。今の私だけしか見えないよ。今の私を、もっと適切にすることしか、私にはできない」
「適切って語彙すご。自分を適切にする、か。好き、その表現」
「でも、できない」
「完璧な適切なんてどこにも存在しないでしょ」
 校舎の絵を入れ替えてしまうように?
「でも、適切になろうとすることはできる」
「かっこいい。かっこいいのは私じゃなくて、御影さんだよ」
「それって皮肉?」
「ううん。悪口。綺麗事言う人嫌いだから」
 名越さんは微笑む。
 私は舌を出して、名越さんの悪口に応戦して、席を離れる。
 自分の席に戻って、カバンの中から携帯を取り出す。
 アプリを開いて、お父さんのメッセージ欄を開く。
「ごめん。やっぱりお父さんのところにはいけない」
 文字を入力して、息を吸って、吐いて、送信ボタンを押す。
 送信されたことを確認して、携帯をまたカバンにしまう。
 この判断は果たして適切なのだろうか。物事の適切さは、その瞬間ではなく、適切だったかどうかと事後的に判断することしかできないのかもしれない。だったら、いつ適切だったかがわかるのか。一年経って適切ではなかったと判断したとしても、10年経った時には適切だったと判断が変わるかもしれない。だとしたら、モノの価値はいつ判断されるのか。モノの価値は、変わり続けるということなのか。
 だったら、私のこの判断も、いつか適切だったという価値を持つ日が来るのかもしれない。明日、大きな後悔を抱いたとしても、明後日、1年後、10年後には適切さが追いついてくるかもしれない。
 考えるしかない。悩むしかない。適切だったと言える日を待ちながら。どこかを漂う適切さに、出会うために。

(続く)

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