「イレーヌは漂いつつ」(10)

「ひとまず、絵が入れ替わるということは今日も起こらなかったそうです。原因はまだわかっていませんが、もし何か心当たりのある人がいたら、私まで教えてください。それでは、今日のホームルームは以上です。気をつけて下校してください」
 日直が号令をかけ、礼をする。
「ほのか、私予備校だから先帰るね」
 聡子の声に、私はやんわり頷く。私の鈍い反応を見る前に聡子は教室を去っていった。私はのんびり机を教室の後方に下げる。
 イレーヌの入れ替わり騒動は、驚くべき速さで沈静化していった。今日も一部の生徒が校内を巡回していたのを見かけたが、昼休みにはそんな姿も見られなくなった。教室の中でイレーヌの話をしている生徒も少ない。来週の模試の話や、志望校の決定について話している。それか、黙々と机に向かって自分の勉強をしている生徒。
 もうこの中でイレーヌを想っているのは私だけなのかもしれない。
 元々校内に飾られている絵に関心を持っている生徒自体少なかった。今回の騒動も、みんなが関心を抱いていたのは絵そのものではなく、絵の移動という運動の部分だけだ。そして、絵が動かなくなれば、その関心は失われていくのは当然だった。笹塚先生の最後の言葉も、みんななんとなく耳を傾けている程度だった。月曜日に笹塚先生がこの騒動に対して言葉を発したときのみんなの目のぎらぎらは損なわれていた。
 みんなはあっという間に受験勉強に戻っていった。本来やらなければならないことに戻っていった。
 イレーヌはイレーヌで、漂うことをやめてしまった。ひと目につかない、地下深くに潜って、静かな時を過ごしていることだろう。
 本当に、漂っているのは私だけになってしまった。
 みんなは受験勉強に居場所を見出し、イレーヌは地下にそれを見出した。なぜそこにいるのか、本来そこにいるべきではないのではないか、だったら本来はどこにいるべきなのか、という存在や所在に対する疑問を持たずに、みんなは、イレーヌはそこに存在している。なぜ私だけ存在の確定ができないのか。私が大学受験から逸脱したからなのか。だったら、大学受験しない人はみんな逸脱しているのか? 専門学校に行く人は、みんな自分の存在に対して懐疑的になる? そんなことはないはずだ。だったら、私はなぜ疑っているのだろう。何を疑っているのだろう。なぜ私は漂ったままなのだろう。私にだって、行き先も目標も、人生の見通しもあるのに。
 私は、まだどこかで大学に進学しないという事実を見下しているのだ。お父さんと同じように、専門学校に進学したら、そのあと大変な暮らしを強いられると思っているんだ。その年の18歳のおよそ半分は大学に進学する。残りの半分は「大学に行かない」人であって、自分の人生を選択しているのではない、専門学校に行く人は「専門学校に行く人」ではなく、「大学に行けず、専門学校に仕方なく進む人」と想っている。どこかで、ではなく、確実に。そして、自分が見下している場所に私は進んでいかなければならない。その現実に、目を向けていない。私が抱えている現実から、目を背け続けている。お母さんに対する憎悪で、私の差別意識をぼかしている。私を被害者にすることで、私を正当化している。私をお母さんのおもちゃだと認めることで、自分の境遇を不当としている。不当なのはお母さんでも、専門学校でもなく、私なのに。
 教室の窓から外を見る。秋晴れの空が広がっている。いつの間にか、目から涙がこぼれていた。近くにいたクラスメイトが大丈夫、と声をかけてくれた。うん、大丈夫とだけ言って、教室を後にした。私に泣く権利なんてないのに。
 もう、イレーヌは私のことを慰めてはくれない。いや、最初は私のことを慰めてなんていなかった。それはイレーヌを勝手に擬人化して、私が欲していた声を出させていただけだ。イレーヌは幻影だ。実在しているのは、甘えている私だけだ。
 家に帰っても、誰もいなかった。私が、居場所にしなければいけないのは、ここなのに。でも、私にはこの家がお母さんの存在を規定するための施設としか思えなかった。私のための施設ではない。私を守ってくれる場所ではない。お母さんの自己が守られれば守られるほど、私の体はそれまで抱いていたイメージから犯されていく。じゃあお母さんはずっとお父さんの下にいるべきだった? お母さんはお父さんに守られながら生きていくべきだった? そうなれば今度はお母さんが損なわれる。お母さんの存在はお父さんによって規定されて、私は三次的な存在に成り下がる。どこまでも、私たちは守られる存在なのだろうか。私たちは誰かに守られないと存在できないのか。誰かに優越感の対象にならなければ、私たちは存在意義を勝ち取れないのか。でも、私もその優越感の当事者なのだ。優越感に浸られながら、優越感に浸る。誰かを非難すれば、同じ言葉で私も非難される。なんでこんなに苦しまなければならない? どうして何も考えないで誰かを悪者にできないのだろう。そうすればずっとずっと楽なのに。お父さんはお母さんを支配する存在で、お母さんは自分の人生の獲得のために娘の進路を捻じ曲げた存在で、聡子は何も考えないで誰かが敷いたレールを進んでいるだけの存在で、笹塚先生は自発的に、かつ強制的に敷いたレールを走らせる存在で、専門学校は学力的にも経済的にも大学に行けない人が進む存在で、私はその誰でもない、その人たちによって何かを損なわれた存在だ、ってなんで言い切ることができないのか。誰かを蔑め。誰かを憎め。誰かを侮れ。悩むな。苦しむな。
 携帯を見た。お父さんからメッセージが届いている。内容を確認しないまま、通知を削除して、床に叩きつけた。
「どこに行けばいいの」
 そう呟いたところで、何も答えは出ない。

(続く)

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