「崖の上のポニョ」試論 ~解放と再呪縛、そして逸脱

 かなり長い間、スタジオジブリの「崖の上のポニョ」と「借りぐらしのアリエッティ」の二作は私の中で消化しきれずにいた。物語の像をつかみ切れずにいた。もちろん、物語の像をつかむといっても、それは点と点を無理やり線で結び付けた、物語とは全く別の絵画であって、映画を見たからといって物語の像をつかむことは必須ではない。ただ、像があいまいになったままになっている作品は私の中で恐怖の対象でもある。そんなもやもやが長い間私の中に丁寧に折りたたまれてタンスにしまわれていた。

 子どもがジブリにハマり、上記の二作品を何度か繰り返しみる機会を得ることになり、またフェミニズム批評や家父長制についての勉強を通して、なんとなく物語の像らしきものをつかみかけることができた。今回は「崖の上のポニョ」がどういう構図であるのか、というメモを残しておきたい。

解放としての物語

「崖の上のポニョ」は焦点化する登場人物を誰に設定するかということで物語の像は大きく異なる(と思う)。今回の私の試論ではポニョに焦点を合わせる。
 ポニョは父親であるフジモトの元で半ば幽閉されるような状況で生活している。一度、住処を抜け出し、宗介と出会って「ポニョ」という名前が授けられたあとも再度フジモトに強引に連れ戻される。
 その後、母親であるグランマンマーレの手引きもあって、魔法の力を捨てることを条件に、人間の姿を手に入れることができ、「好き」である宗介とともに生きることを選択する。
 ここからは「イエ」の呪縛から解放される少女の姿を見出すことができる。フジモトはポニョと宗介の「絆」に触れることで、人間に対する不信感を和らげ、ポニョを宗介に託すという選択をする。
「イエ」との関係を描いた作品はジブリ映画の中に他にも登場する。代表的なものは「魔女の宅急便」である。「『血』で飛ぶ」というウルスラに対して言ったキキのセリフが物語るように、魔女の「イエ」の力をキキは引き継ぎ、その力で身を立てていくという物語だ。キキはイエによって魔女になることを宿命づけられ、他の人生の選択肢は物語が始まった時点で想定されることはない。
 「風の谷のナウシカ」も、小国・大国の権威主義的な王族が統治する土地で繰り広げられる話である。どうしてもトルメキア帝国の強権ぶりに目がいってしまうが、ナウシカが住む風の谷も歴とした権威主義国家であり、民衆からナウシカに対する信頼感の源は王族による権威に他ならない。ナウシカもクシャナもどちらも同じ「姫」であることに変わりはない。劇場版では大ババの予言通りにナウシカが風の谷を守るという予定調和的なラストを迎え、王であるジルを失いつつも、風の谷という王権国家は存続する。
 「天空の城ラピュタ」はムスカによる権威的な家父長制国家の再興を滅びゆく王族の末裔である少女シータと、父親の無念を背負った少年パズーが阻止する物語。シータたちがラピュタへ向かうために身を寄せたドーラ一家はその名の通り、実際の血族と他者が入り混じる疑似家族組織である。飛行石の強大な力を担保にしてラピュタ家の権威はシータたちの尽力で再び滅亡したものの、ドーラ一家という「家族」の力はなおも力を維持していた。
 このようにイエをテーマにした作品はジブリ作品にも多く存在する。その中でも「イエの呪縛」→「呪縛からの解放」が最も鮮やかに描かれているのは「ポニョ」かもしれない。フジモトが支配するイエからの解放というより、グランマンマーレが統治する「海」という超巨大な共同体を離れ、宗介が生きる陸の世界へと転身するという構図は、ジブリ作品におけるダイナミズムの中では最も大きいものの一つである。「もののけ姫」では、アシタカとサンはともに思いあうものの、アシタカはタタラバ、サンは森と別々の世界で生活することを選択する。そういう意味では、混淆の世界の中を二人は生きていき、どちらかがどちらかへ完全に越境するわけではない。
 もちろん、ダイナミズムが大きいからといって、それが「優れている」という評価にはそのまま結びつくことはない。むしろ、ジブリ作品の長所は「混ざりあっていること」「二元論に陥らないこと」だと私は思っているので、ラストの描写でいえば断然「もののけ姫」に軍配を上げる。
 とはいえ、「解放」というキーワードは「崖の上のポニョ」を彩っているものであることは間違いない。ただ一方で、ポニョはなんの代償もなく「解放」を得ることができたのだろうか。ポニョは何をすることで父から「解放」されていったのか。そこにはまた別のイデオロギーが潜んでいるのではないか。

ロマンティック・ラブ・イデオロギーの利用と再呪縛

 タイトルの通りだが、ポニョの解放は「恋愛」を媒介にして行われる。
 前節で論じたように、ポニョはグランマンマーレから受け継いだ強大な魔法の力を放棄することで(キキが選択しなかった道。魔女の宅急便の別の世界線でもあるのか…)、ポニョは人間の姿を得て、父から、海から解放された。もう一つの大きな条件は「宗介に受け入れられること」である。
 ポニョが井戸に海水を流し込んだことが原因で世界の均衡が崩れ、崩壊へと向かう。この崩壊を止めるには、ポニョを眠りにつかせるか、人間の姿にするかの二者択一となり、フジモトはポニョを眠りにつかせようとするも、宗介の介入や、リサとグランマンマーレの対話によって、ポニョを人間の姿のまま定着させることで世界の均衡を保つようになる。そのためには、宗介が本来は魚であるポニョを好きにならなければならず、また、好きでいなければならない。グランマンマーレの「半魚人でもいいか」という言葉に対して、宗介は「それでもいい」とポニョを受け入れる。
 「ポニョ、宗介、好き」というポニョのセリフが有名であるが、まさにその「好き」によってポニョの存在は規定される。
 一対の異性(的な表象)の「好き」という感情が世界の秩序を保ち、再生産するという構図は「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」に他ならない。異性愛は生殖へと直結し、社会的再生産の原動力となる。日本列島における古代王朝からこのイデオロギーは機能し続けている。

 『古今集』は、春夏秋冬の季節の歌を最初に置き、その後、賀歌・離別歌・羇旅歌・物名と続き、その後に恋歌が五巻分を占めている。四季の歌を最初に置くという構成は、その後も踏襲される。歴史として流れ去るのではなく、四季として循環する時間が基準となる。帝の支配は転変するものではなく、常に新たにされた生命の繰り返しであり、和歌集はその永続を寿ぎ祝福するものである。恋はその生命力を裏づける。それは男だけの政治の世界から男女が関わる私的世界に場を広げる。こうして、和歌は「天地の開け始まりける時より」続くもので、「天地を動かす」宇宙的な力を持つ。
ー末木文美士『日本思想史』(岩波新書 p.50)

 「恋」は世界の永続の生命力を裏づける、という考え方は現代でも間違いなく機能している。仮に宗介の自由意志が「世界の秩序の安定」にではなくポニョ個人のみに向けられていたとしても、ポニョに対する意志は世界の秩序の安定に直結している。これは私的な異性愛が社会的再生産に繋がっていることが日常においては意識されないということと同じである。そして、宗介とポニョの「好き」は末木の言葉通り、地球の均衡を根本から保つほどの「宇宙的な力」を保持しているのである。
 つまり、ポニョが「イエ」というイデオロギーから解放されるためには、また別のイデオロギーの中に身を投じなければならないということである。解放のためには、さらなる呪縛を利用しなければならない。
 これは現日本国憲法下における「両性の合意のみ」で形成される婚姻関係が孕んでいる矛盾点でもある。戦後の婚姻関係はイエとイエの婚姻関係という戦前にあった家父長制による婚姻関係を打破し、個人と個人の婚姻関係へと変貌した。にもかかわらず、いまだ性の選択の割合などを見ると夫権の大きさは否定することができない。日本国憲法によって平等な婚姻関係が保障されているものの、いまだ夫婦間には勾配が残存している。
 ポニョと宗介の関係も果たして平等な関係と呼べるのだろうか。「ポニョ」という名前は父親から授けられたものではなく、他でもない宗介によってもたらされた名前である。ここには「名付ける者/名付けられる者」という圧倒的な非対称な関係がある。これは夫婦というよりも親子関係に類するものでもある。また、グランマンマーレの言葉の通り、二者は「受容する者/受容される者」という関係でもある。あくまで、この「好き」という関係においては、ポニョは受動的な存在にすぎない、ということになる。これも勾配が残る現代の婚姻関係に類似している。
 ここまで論じると、「ある夫婦」と「崖の上のポニョ」との共通点に至る。小室眞子さんと小室圭夫妻である。
 眞子さんのみならず、現在皇室に属している女性皇族がその強権な家父長制的家族から解放されるためには、皇族以外の男性と婚姻関係を結び、皇籍から離脱するしか手段はない。もちろん、眞子さんが皇室から離脱したくて婚姻関係を結んだかどうかはわからないが、手段としてはそれをとるしかない。イデオロギーから脱するためには、新しいイデオロギーを利用するしかない。これはポニョと同じ構図である。
 イデオロギーとイデオロギーが交差している。これは近年インターセクショナリティについての研究が進んでいるように、セクシズム一つとっても、性別だけではなく、人種・経済格差・身分など、様々な要素がセクシズムを複雑に構成している。
 そうなれば、真の解放とはいったいなんなのだろうか。イデオロギーの利用を経由せずに、イデオロギーから解放されるということは不可能なのだろうか。アナーキーも一つのイデオロギーのように、本当の意味での脱構築というのはかなわないのか。

家父長制からの「逸脱」

 しかし、「崖の上のポニョ」には、典型的な異性愛からの「ずらし」ともとれる要素が複数織り込まれているのも事実である。
 ポニョを受容した宗介もまたリサと耕一の長男でもあるが、5歳の宗介は自身の母親であるリサを「リサ」と呼び捨てで呼称する。この呼び名は典型的なヒエラルキー的(儒教的)家族からは逸脱し、対等な関係を読みとることができる。そして、父親である耕一は貨物船の船長であり、劇中では家に帰ることはなく、モールス信号による交信と、ラストシーンでの登場のみである。父権が強いポニョの家族とは違い、宗介の家は父は「不在」であり、残された宗介とリサも対等な関係を結んでいる。
 また、世界の不均衡を戻すために働いたのも、男性ではなく、女性であった。中心にいたのはリサであり、リサを支えたのはリサが働いている老人ホームの居住者である老婦たちである。その中には男性の姿はない。ナウシカやシータなど、ジブリ映画では「戦う少女」がたびたび描かれるが、彼女らはいずれも父権的な王族出身である。前述したように、力の源泉として、父的な王族がバックボーンとして存在するのである。リサや老婦たちにはそれがない。家父長制的背景を持たない女性たちがポニョと宗介のロマンティック・ラブによる世界の安定を後押しする。
 典型的な家父長制、ロマンティック・ラブ・イデオロギーを描きながらも、こうした典型的なイデオロギーの周縁にいる存在が物語を動かす原動力になっている、というのは「崖の上のポニョ」の強みでもある。

おわりに

 どうにかこうにか私の腑に落とすために、いろいろなタームを使って「崖の上のポニョ」を批評してみた。この物語は真の解放とはなにか、というテーマを可視化し、さらにはそのテーマは現実世界の婚姻関係にも直結している。イデオロギーの交差が起きているのは婚姻制度だけではない。様々な場所でこの交差点における事故は多発している。一つ一つ、その結び目を見つけて、どうにかひも解いていくためにも、より丁寧に社会の情勢に目を向けなければならない。
 疲れた。「借りぐらしのアリエッティ」についても後日論じたいと思います。おやすみなさい。

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