「イレーヌと漂いつつ」(6)

 土曜日の市立図書館。賑わいはないものの、多くの人の気配が漂っている。昔はよく本を借りに来ていたが、お父さんと離れて暮らすようになってからは初めて訪れた。
 大判本の本棚から大きな書籍を取り出す。背表紙には「ルノワール」の名前が刻まれている。
 確保しておいた座席に書物を置いて、ページをたぐる。ほどなくしてイレーヌに出会う。本の中に佇む彼女も、変わらず美しかった。
 ルノワールの略歴をおってみる。当時、画家として認められるためには宮廷のサロンで作品が評価される必要があった。しかし、のちに印象派と呼ばれる画家たちはサロンに対して反旗を翻し、自分たちの流派を押し通そうとする。ルノワールもその中の一人だったが、評価されない時期が続くと、サロンでの活動に戻ったという。そのときに評価されたのがこのイレーヌの絵だった。
 イレーヌの父親はユダヤ人の銀行家だった。イレーヌの絵は、イレーヌ本人からイレーヌの最初の夫との間に生まれた娘のベアトリスに受け継がれる。ベアトレスの一家は、そのあとナチスの強制収容所で全員命を落とす。イレーヌ本人の手元に絵が戻るころには、娘は地球上にはもういなかった。
 美しい少女だったイレーヌも、大人になって家庭を持ち、一度は離婚する。なぜイレーヌが離婚したかというところまでは書籍には書かれていなかった。
  イレーヌは何を思って離婚を決意したのだろう。ベアトレスは母親の離婚の決断を聞いて、何を思ったのか。
 お父さんと離れて暮らすことにした、とお母さんが言ったのは夏の暑い日だった。
 前兆は感じられなかった。お母さんとお父さんの夫婦仲が極端に悪いとは思っていなかった。詳しく聞いたことはないが、お父さんの仕事ぶりも順調だった。私立学校にも通い、お小遣いも定期的にもらうことができた。何不自由なく生活していた、と私は感じていた。
 私が黙っていると、お父さんのことが嫌いになったから別れるわけではないの、とお母さんは付け足すように言った。反射的に、じゃあどうして、という言葉が出ていた。これ以上、お父さんの下で暮らすことはできないの、とお母さんは答えた。お父さんの世界の中で、私はこれ以上暮らすことはできない、と付け加える。お父さんの稼ぐお金を使って、お父さんが買った家で、お父さんに買ってもらった服を着て暮らすわけにはいかないの。それは私が私でなくなるということなの。私は私が稼いだお金で、私が見つけた家で、私が買った服を着て生きなければならない。それが、私が私になるということなの。お母さんは一言ずつ、ゆっくりと言った。お母さんは自分に言い聞かせていた。その目は、私を見ていないように私には見えた。
 私がこの話を聞いたときには、すでにお母さんとお父さんの話し合いは終わっていた。急いで服や荷物を片付けて、長年暮らした一軒家を後にした。お母さんの荷物は少なかった。すでにアパートに入居していて、荷物を持ち運んでいた。学校の勉強で忙しかった私は、気づかずにいた。お母さんは、離婚することを相当前から考えていた。
 お母さんは、私の知らないところで抑圧されていたのかもしれない。お母さんは、御影こころとして生きることを諦めざるを得なかったのかもしれない。御影こころとして生きていくためには、お父さんの世界から抜け出す必要があった。お父さんの優しさを捨てる必要があった。
 お母さんは、今は自分で編集者として働いている。でも、昔のような生活を維持することは無理だった。料理の品数も少なくなった。私がもらうお小遣いは少なくなった。私は大学に行くことができなくなった、いや、私は自分自身で大学に行くことを諦めた。私の将来が決定した。
 お母さんは、お父さんの世界から抜け出すことで「御影こころ」になることができた。だとしたら、御影ほのかは、どうしたら御影ほのかになれるのだろうか。私の思い描いた人生はどのように実現することができるのだろう。お母さんは、御影こころであるのと同時に私の母親でもあった。お母さんは、お父さんの世界から抜け出すのと同時に、御影ほのかの人生をも犠牲にしたのではないか。私の人生を代償にして、自分の人生を手に入れたのではないか。
 ベアトレスはナチスによって命を奪われた。イレーヌは戦後も生き抜いた。お母さんは、御影こころとして、これから先も生き抜くかもしれない。じゃあ私は? ベアトレスと同じように、これから先の人生を奪われていくのだろうか。
 図書館は残酷なまでに静かだった。肩が震える。イレーヌは今どこにいるのだろう。あなたはどこに行きたいの。私は、どこへ行くの。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?