「イレーヌと漂いつつ」(9)

「あのね」
 お母さんに向けて自分の口から出た言葉が、いつもと違う響きを含んでいることを感じた。
「うん?」
 お母さんは私が作った肉じゃがを頬張る。
「うちの学校で、変なことがあってさ」
「うん」
「学校の廊下に飾ってある絵がいつの間にか入れ替わってて」
「うん?」
「私が好きな絵があって、学校に行くたびに、その絵が他の絵と入れ替わっててさ」
 お母さんは私に視線を向けながら、じゃがいもを咀嚼する。
「私が好きな絵がAだとしたら、次の日はBの絵があった場所にあって、次の日はCの絵と入れ替わってて、時には誰も入れないような場所の絵と入れ替わってたり」
「へぇ。おもしろい」
「お母さんはそう言うと思った」
「学校のみんなは、そのことには気づいてるの?」
「うん。最初はみんな興味なさそうっていうか気づいてなかったんだけど、何日か経ったらいつの間にか学校中で騒ぎになっちゃって、昨日なんて先生がホームルームで騒ぎすぎるなって注意換気するくらいでさ」
「その入れ替わりには規則性があったりするの?」
「規則性?」
「3階の次は2階に行ってその次は1階に行くとか、特定の特徴がある絵とばかり入れ替わるとか」
「ううん。ランダムって感じ」
「ふうん」
「でもね、今日は違ってて」
「うん」
「その絵が、入れ替わってなかった」
「昨日と同じところにあったってこと?」
「うん。昨日、校舎の地下にある物置に移動してて、今日学校に行ったら、また同じところにいた」
「他に移動した絵はないの?」
「もう生徒の中で研究班ができてて、校舎に飾ってある絵は全部リストアップされてて、その日の絵の所在地は全部バックアップが取られてるんだけど、全部照らし合わしてみても、他に動いてる絵もなかったみたい」
「すごい人たちがいるもんだね」
「うん」
「誰が動かしたかってこともわかってない?」
「今のところ。先生たちは突き止めてるかもしれないけど、生徒の中では推測が飛び交ってる感じ。犯人を見つけることが目的じゃなくて、犯人探しをするのが目的化してる感じがして、私はあんまり興味ない」
「ほのかは、その出来事に関してはどこに興味があるの」
 自分がいちょう切りにした人参を頬張る。美しいいちょう。均質ないちょう。
「わからない。ただ、私の好きな絵が移動してるってだけでこだわってたのかもしれない。でも、なんだか、その絵に描かれてた少女に、私を当てはめていたのかもしれない」
「同情してた?」
「同情してたっていうか、共感してたっていうか、どこに流れ着くかもわからずにふわふわと漂ってるその絵と、私が似てたのかな。私は私がどうなっていくのかわからないし、わからないことが不安だったりするし」
「でも、その絵は動かなくなったんだ」
「そう。漂ってるのは私だけになっちゃった、いつの間にか」
「なるほど」
 お母さんは残っていたビールを飲み干す。
「私にとっての物置みたいな場所があったりするのかなって思うんだよね。もしかしたら、それは学校なのかもしれないし、私が気がついてないだけで、存在しているのかもしれないけど、多分私はまだ気づけてなくて。イレーヌは、あの女の子は、それを見つけたのかな、なんて」
「ほのかは、そういう場所がほしいと思ってる?」
「どうだろ。あったらあったで邪魔になる気もする」
「確かに」
「でも、なかったらなかったで不安だったりして。わがままなのかな」
「そんなことないよ」
 お母さんは、ごちそうさまと言って、お皿を流しに片付ける。
 そんなことないよ、の次にどんな言葉が続くかと思ったけど、お母さんはその話題に触れることはなかった。どんなことを言ってほしかったかはわからないけど、お母さんの言葉が聞きたかった。
「あのね」
「うん」
「お父さんから連絡がきたの」
「そう」
「うちに来ないかって」
「うん」
「それだけ」
「ほのかの自由にしていいんだよ」
 私は箸を置いた。
 この家で、自由という言葉を使うお母さんが、心の底から憎かった。
 じゃがいもと豚肉一緒に、煮てしまおうか。
 でも、そんな肉じゃが、食べたくない。

(続く)

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