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文化人類学と許容


学生時代、「人類学」と名のつく授業を2、3履修したが、その面白さはよく理解できていなかったように今では思う。当時のわたしは、「よく知らない国や地域の文化を知ったところで何になるというのか」と感じていた。

最近なんとなく、改めて文化人類学について知ってみたくなった。だから簡単な本を読んでみた。その結果、文化人類学を学ぶと、「他者を許容する」ことが出来るようになるのではと、考えるようになった。同時に、文化人類学の面白さも知った。

まず最初に読んだのは、この本。

村松圭一郎『うしろめたさの人類学』ミシマ社

本の主張の本筋ではないのかもしれないが、この本からは、「『自分にとっての当たり前や自分の感情は、周囲の環境によってつくられたものだ』ということは、比較を通して自覚することができる」という知見を得た。そして、その比較を行う際に、比較対象を遠い国や地域に設定するのが、文化人類学の方法だと知った(遠くに設定することが多いだけで遠いことが必須ではないと思う)。

「文化」と言うとざっくりしているが、つまり自然、社会、市場、国家についての認識やこれらに対する態度の全てをひっくるめて、「文化」と呼んでいるんだと思う。つまり文化人類学は、人類に関するかなり幅広い領域を対象に、比較という方法を用いて、「わたしたち」と「彼ら」について明らかにするという学問ということだと思う。

次に、もう少しだけ文化人類学について詳しく書かれているこの本を読んだ。

松村圭一郎、中川理、石井美保編『文化人類学の思考法』世界思想社

詳しくとはいえ、一般向けの本ではあるので、大変読みやすい。トピックごとに章が分かれていて、全体を通して読むと文化人類学の幅広く色んな分野について知ることが出来るようになっている。

その中でもわたしが特に興味を持ったのは、「認識論」から「存在論」への転換という考え方だった。妖術や精霊を例にとると、認識論は「妖術や精霊はある、と彼らは認識している。」という考え方であり、一方で存在論は「妖術や精霊は、彼らにとっては実在する。」という考え方である。つまり、「そんなものは本当は存在しないが、彼らはそう認識している」という捉え方をやめるのが、認識論から存在論への転換だ。

一見すると、「彼ら」の世界の見え方に寄り添っているように見える。しかし、「自分にとっても存在し得る」とは言えなくなる、という点では、「私たち」と「彼ら」の差異を明確にしているとも言える。

そして、この転換が、今の文化人類学の主流というわけでもないらしい。もちろんこれを否定する立場もある。その中で、「そんなはずはない」と「かもしれない」は両立しうると筆者は書いている。わたしはこの考え方が気に入った。

妖術や精霊に関する見え方、もしくは捉え方に限らず、この、「わたし(たち)」と「彼ら」を比較して、異なる部分があるだとか共通する部分もあるだとか、異なるが理解はできるだとか、そういった分析をすることは、日常生活の中でも活きると思った。

適度に周囲の人と関わって生きていると、周囲と同じ考え方や感じ方をすることもあれば、そこに差があることもある。特に後者の場合だと、人間関係に苦しむことも多い。そこで、「自分が正しい。自分と違う部分がある人は敵だ」としてしまうと、とても生きづらい。だけど、「違う部分もある。相手の言い分については、そんなはずはない、と、もしかしたらそうかも、を行き来する程度で捉えていて、100%同調することは絶対にないが、許容することはできる」ぐらいに考えられれば、大分楽になると思う。

人類学を学ぶと、どんな場面においても自分の考え方や感じ方が絶対に正しいなんてことはないと分かり、他者を許容できる幅がどんどん広がっていく気がする。こんな風に、遠い世界や普段縁のない世界を知ることが、日常の小さなことにも繋がっていくのはとても面白い。もっと人類学を学んでみたくもなった。

次はもう少し専門性の高い本にも手を出してみようかな、と思う。もう少し学問の全体像を捉えて考えを深めてみたい。





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