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【前編】タイトル未設定001

こんにちは、ひさしぶりと初めまして。
白い水と書いていずみです。

ごめんなさい!!!!!!!最初に謝っておこうと思います。
朝からこれを読む人の気持ち、夜丁寧な時間にこれを読む人の気持ち。

あと、人の過去の辛いエピソードとかが嫌いな人は絶対読んだらだめです。もはや他人の不幸は蜜の味くらいのひとに読んで欲しいよな〜

ということで、ちょっと長くなってしまうので前編後編に分けます。
そしてこれは、わたしの体験です。日記でした。
はー!?前編後編とかかっこつけてんじゃねえって思ったでしょ!それな!

あと私をリアルにこの時会ってた人たちとこれから最終制作にはげむヤバイデザイン科はまじで気をつけてね〜!
わたし書いてたら気持ち悪くなってきちゃった!

あと受験生もな!!
それを考慮した上で読み出したら、最後まで読んでね。

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2018年の10月頃不意に持ち上げた洗濯籠を持ち上げた瞬間の出来事でした。
突然骨が腰から出てきちゃったのかな!!?!?!?くらいの衝撃を腰あたりで感じて人生2度目のぎっくり腰を罹患。
そのあと歩くことはおろか立ち上がることすらままならないまま、一人暮らしの当時大学絶賛不登校中のわたしは家に一人で引きこもる次第となりました。
数日後人生初めての整形外科にて「椎間板ヘルニア」の診断を受けて毎日右足スネあたりと足の付け根の激痛と足先のしびれと闘いながら生きることになります。

「椎間板ヘルニア」とは椎間板という骨と骨の間のクッションがなんらかの圧力により飛び出て(飛び出た状態をヘルニアと言う)神経を圧迫する病です。
人間の背中には脊椎という場所に何本もの太い神経が脳の下から腰までスーっと通っていてその神経が手先や足先の末端神経に繋がっているのです。なのではみ出てしまった椎間板が神経を圧迫したところに痛みやしびれが発生するんです。

画像2

これがそのときのMRI画像なんですけど、体を横からみたとき、中心の大きな2箇所の椎間板が思い切りハイチュウみたいにブチャってなって神経を押し込んでるのがあることがわかります。

今回のわたしのはみ出た椎間板は右にズレていてそこにあった右足に通ずる神経をがっつり押し込んで圧迫していたんですねえ。

こんな感じでいつもどこかに激痛がある状態が続くため長時間同じ姿勢を保っていられないんです。なので電車に長時間座っていられなくて突然席を立つとか(わたしがそれやられたらえっ私なんかくさかったりしたかなと心配になっちゃう。笑)
学生なので90分の授業は座っていられなくてさらに行けなくなります。集中もできないしね!


そしてなにより服用する薬の多さ!
朝昼晩、ロキソニンと筋肉の緊張を和らげる効果のあるもの、神経に直接効かせるもの、夜寝る前、睡眠障害も私の中で大きな問題だったので睡眠薬と抗不安薬もそれぞれ2粒。ハウスダストや動物の毛に反応するアトピー持ちでもあるので抗アレルギーの薬。合計で8つもの薬を毎日毎日飲まなければ通常の日常生活すら送れなくなる事態になってしまいました。

ここまで病状についてつらつらと書いてきたんですけれど、そもそもなんでこうなったか、というものがMRIやCTをとっても血液検査をしてもお医者さん曰く全く分からないと言われました。

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勉強にあまり力を入れていない、田舎にある、田舎っぽい考えでしか動いていないような運営の、偏差値も低い人は30、高くても70なかったような高校の超中間にいた冴えない女子生徒でした。そんな私は周りの人間に恵まれていて、高校生活も終わる12月に慶應義塾大学、環境情報学部にギリギリ入賞したコンテストの賞でAO入試に合格。いわばビリギャルみたいな綺麗なシンデレラストーリーにもなれず、学力もなく、やりたいことも受験のための道具、興味はあるけど爆然とした世の中の流れで慶應に入学するのです。たしかに合格したときは死ぬほど嬉しかったし、これはある意味奇跡で、それでも必然で、これから来る未来への期待も大きくて人生のレッドカーペットを歩いていました。しかもど真ん中を。

入学と同時に大学の最寄り駅に一人暮らしを始めたわたしは、毎日ホームシックで泣いていました。その頃から夜に寝付くことが出来ず生活リズムがぐちゃぐちゃになっていきました。非常に情けない話です。
それから3年間2018年になるまで生活リズムさえしっかり管理できない自分、朝という時間に起きれたことがない自分、慶應という日本屈指の大学に入った意味、受験時にたくさんの人に支えられた過去の恩恵へのプレッシャー、受験で勉強していた生物学でまわりの同じ分野に進んだひとたちの優秀な成績それに比べ自分の情けなさ、劣等感、嫉妬。いろいろなものを感じて考え込んで嫌悪しながら生きていました。
そんな中でもわたしの中でやりたいこと、好きな分野へ飛び込んでいく勇気、興味のある場所に入っていくことができました。学面も周りの大切な友達に助けてもらいながら、いろいろな試練を乗り越えました。たくさんのネガティブな毎日のなかにもちゃんと幸せがあることが唯一の救いでした。この時わたしを支えてくれていた友人には感謝しきれないんです。


さらに2018年は卒業プロジェクト(卒論みたいなやつです)の始まった年でした。
そして、わたしはおもいっきり失敗します。ここまで人生の中で失敗したことってなかったと思います。卒業を逃したんです。合格できなかった。

真夏のあの最終プレゼンの日がわたしにとっての裁判の日でした。
これは大きな目でみたときにこんないい大学に入学できる癖にそれに完全に浸れなかった自分への罰なのかとも考えました。
さらに卒業制作を評価した一人、ある尊敬する有名デザイナーからの責めと叱り。

「なぜやらないんだ。
なぜこんないい環境にいるのにやらないのか。やれよ!!!やれ!!!」

圧倒的な事実。
それを認めたくないわたしの最後の意地。なぜこんなことも出来ないのか。

その反面、
この男はわたしの何を知っているのか、自分がいい環境に置けられなかったことを他人のせいにでもしているのだろうか、顔を真っ赤にして見据えたその目にわたしはそんな風に写っているのか。それともその真っ赤な顔はその手に持つビールジョッキのせいなのか、そうなんだろうなあ。それにしてもわたしになんてことを言っているんだこの男。そうやってわたしにアタルことで俺はすごいんだぞとおごっているんだろう。そしてこの男も自分をそうやらないと正当化できないし、聞けばそう答えるんだろう。こういうふうになった人間を止められない。

必死で居酒屋の冷たいおしぼりを口に当てて、あふれる涙とその反面あふれる自分の想いを押し止めることしかわたしには出来ませんでした。

あの日にわたしは完全に落ちました。毎日自分を正当化しないと生きていく自信さえありませんでした。毎日泣いて、家族にはケロっとして普通の自分を嗚咽を殺しながら電話しました。こんなときにもお腹はすいて、温かい、寒いを感じる自分をだれか無に返してくれよと他力本願に願っていました。

もう永遠に眠っていたい。目が覚める前の眠りの浅瀬で見る夢はあの日のことばかり。あの男の目は蘇り、泣きながら目が覚めてこの世で一番嫌いな現実に戻ってしまう。

それでも死なない健康な自分にうんざりしました。
大好きな両親には言えず、仲の良い弟にすこしずつ話をし、見兼ねた弟が両親に話をしたところで強制的に実家に帰省しました。
そこでも大泣きしながら家族会議をした気がします。もう衝撃が強すぎてあまり細かく覚えていないのです。

それから9月の終わりからまたいつものように授業を選択し、選抜され、本当に普通に大学が始まります。それから何もなかったかのように3月の卒業を目指して卒業制作を再開するんです。ゼミの先生も、ゼミの友達も、なにもかも変わっていないのに何か根本的なところが変わってしまったと感じるのは自分が変わった、ということなんだと思いました。ただ淡々とこなそう。なんとかならなかったらまたゴミみたいなものを作って評価されて適当に卒業するんだ、そして見えない未来に孤独に死んでいくのか。

1日、24時間ある時間の中で夕方が一番嫌いでした。
この時間になっても進捗のない事実、夜になってしまえば楽なのに。諦めがつけるから。
卒業制作について手を動かしている時以外、全ての生活が現実逃避になりました。

そんな一番底辺の時期でも人間は朝日を見たがるのです。
「家族が理解してくれたのならば他の人に相談してもいいんじゃないか」と。
すがるように電話したのは近所のメンタルクリニックでした。のちに調べるとその医者の評価は最悪でした。

でもそれでも、「医者に通うほど深刻なメンタルだ」ということに気持ちが落ち着くのです。案の定、医者から不眠症と躁鬱の診断とそれに適した薬を処方されました。それから完全ではなくても、呆れた生活リズムを立て直し、不安をシャットアウトできたんです。それから数日平穏が訪れた時のぎっくり腰。ヘルニア。


11月には大学病院で神経薬の治療が始まりました。この薬がとんでもなかった。朝昼晩飲むその薬は飲んだら最後、強烈なめまいと倦怠感、吐き気。体温の急上昇。
ずっとベッドに寝ていなければなりませんでした。腰の痛みは治ったのに作用より副作用の方がひどかったんです。
よって当時さほど辛くなく、続けられていたバイトもとうとう行くことができなくなり、さすがに無理があると感じてかかりつけの近所の整形外科へ行ったはいいけれど待合室で吐いたりもしました。しんど!!!!!!!オッオー

そういやホームシックで泣いてた時、隣人が外国の人で毎日パーリナイしてて、音楽がうるさくてストレスで卵管嚢腫になって緊急手術したんですけどその5億倍はしんどかったヘルニア神経薬。秒でやめました。


とりあえずやめたら、痛みがぶり返します。ある日痛みで起きられなくなり、救急搬送されます。これはまさかの卒制プレゼン3日前のことでした。
一方卒制は、あまりにも人間関係に恵まれてたわたしは、その分野のデザイナーに話を聞きに行ったり、SFCの教授にも意見をもらいに行ったりと確実に制作を進めていました。
とりあえず今だけはしっかりやろうと、受験という成功体験の時にどうしていたのか思い出しながら周りの大人を巻き込んでいきました。
そこで非常に良いものを得たわたしは救急搬送されながらも制作に励めたのです。そしてある日、ゼミの先生と二人で学内を歩いていた時に思い切って言ってみたんです。


あの有名デザイナーととても仲の良かったその先生はきっとそのデザイナーの肩をもってしまうんじゃないか、またここでわたしは傷ついてしまうのではないかと思ったんです。でもその先生は、その一連の話を聞いて、ごめんねと謝ってくれたのです。「〇〇もその後ちょっと反省してたよ」と。


正直、反省してんならわたしに直接謝れよと、こっちはそのストレスが原因でヘルニアにまでなってんだぞと。口が悪くてごめんなさい。でもそう思いました。
でもそのおかげですこし荷が下りたんです。
そして数日後の中間プレゼンでその男と再会したときわたしはまた泣いてしまいプレゼン中も泣き出すというグダグダぶりでしたがなんとか中間を通過することができ、最終プレゼンで合格しました。
濃密な1年間がまさに幕を下ろした瞬間だったんです。中間を通過したとき、あの男の評価は低くても合格点をくれたことに少し救われました。
それからというもののヘルニアの腰や足の激痛が嘘のように和らいでいきました。

こうしてひと段落した卒業制作でしたが、授業での単位が取れておらず卒業はまたさらに遠のきました。
通常の授業は出席しさえすればちゃんと単位はくるようなものだったのに、授業に出れる気がしませんでした。それはやる気だとかモチベーションの話ではなかったんです。全く知らないひとの授業は当たり前のように、〇〇を用意せよ、〇〇をやれと講義案内に出されます。それがあのデザイナーのときのようにやらされているような強制感に感じてしまうのでした。全く学びたいという欲求がなくなっていたんです。学生を正直辞めたかった。単位に追われる人生ってなんなんだろうって思っていました。

そのあと、このことを両親に伝えたところ、環境を変えるしかないという話し合いの結果の元、実家に帰ります。そして休学を決めました。


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ではまた後半に続きます。
長々と乱文を失礼いたしました。
恥をさらしていることは、100も承知。
誰にも読まれなくてもいいから、未来の私に向けて書いています。

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