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適応障害と診断されてから

診断されてから休職期間のことを振り返り言語化しようと思う。
なんのために?なんのためにやろう。特に強い想いはない。
なんとなく、残しておきたいだけかもしれない。
適応障害になった新卒の一例を、情報の海に放ってみる。
ただの日記のようなものやから、あんま意味はないかもやけどね

会社を休み始めて1週間が経ち…

「抑うつ状態にあります、適応障害でしょう。」
やっと見つけたクリニックでもニコニコと挨拶しテキパキと話し、
けれど会社のことを話し出すと涙が止まらなかった私に、
医師はそう診断しました。

『自分は鬱になる前に気づくことができる』
『心がしなることはあっても、折れることはない。』
そう思っていたからこそ、あぁ、やっぱりか。と思った。
病院探しと並行して、自分の症状に検討をつけていたからこそ
受け入れられたように思っていた。
本当は、少し悔しかったし情けなかった。
情けないことではない、
友達やほかの人が心を病んでも絶対否定しない、

そう思っていても、いざ自分がそうなると、
受け入れたつもりで矛盾した思いを抱えるばかりだった。

それからは、上長に電話をして
診断結果と1か月休職したい意志を伝えた。
その時ですら上長に気を遣ってしまった私は
オフィス近くのカフェまで診断書を手渡しに行った。

私とは方針が合わない上長だったが、
人間としては嫌いではなかったので、
最後まで「○○さんが仰っていたように銭湯とか行ってみますね~」
なんて愛想を振りまいていたことを覚えている。

あと「意外と休むことに寛容なんや」と感じたことも。

診断書を出してからの1週間

初めてクリニックへ行き診断を受け
その足で上長に診断書を提出した後は、
久しぶりに彼氏と映画館へ映画を見に行った。
夜は、会社を辞めることが決まった先輩と同期2人と飲みに行った。

次の日は、会社の大好きな先輩とカフェデートをした。
本当に素敵な女性で、私が慕っている先輩だ。
初めて休日に一緒に出掛け、さらに先輩のことが好きになり
早々に次の映画デートの約束を取り付けた。
その日から待ち遠しかったことを覚えている。
 (ちなみに映画デートの日、先輩が8月で会社を辞めると聞き
 私はもうこの会社に戻る意味はないかもと思い始めました。)

その夜は、急遽誘われて同期と飲みに行った。
休職すると決まっても、分け隔てなく接してくれる彼らが同期で
本当に良かったと思う。同期に恵まれたことはよかったことだ。

3日目は掃除と模様替えをした。
テンションはそんなに高くない、と手帳にメモがあった。
高くなかったんやな。

4日目は、カーシェアを利用して近くのスーパーに行った。
マクドナルドを食べて、嘔吐してしまった。
マクドのせいか飲み始めた抗うつ薬(当時はサインバルタ)のせいか、、
それでも、その夜に友達と約束していた夜ご飯をキャンセルしたくなくて
無理して錦糸町へと向かった。
とても楽しい一方で、少し気持ち悪かったことを覚えている。

5日目は、会社の役員と電話をした。
彼は、私が会社を休まず順調にテレアポを達成していたら
配属される予定だった部署の長であった。
この時に話した内容を詳しくは覚えていないが、
この日に自分の休職期間が2週間に短縮されることが決定したのは確かだ。

電話を終えた後(因果関係はないと思うが)
37.3度の微熱を出して寝込んだことが、手帳に記録してあった。

6日目は、頭痛と気持ち悪さと微熱があり、1日寝ていた。

7日目も微熱。
しかしその日は前から予約していたすき焼きディナーの日で
私は気持ち悪さを抑えて松坂牛を堪能しに出かけた。

休職が短くなって

手帳への記録はここで途切れているため、
正確な内容や細かいところまでははっきり覚えていない。

しかし、7月18日までだったはずの休職期間が7月5日までに短くなり、
気持ちにこのうえない圧迫感をかけていたこと、
それを気にして全く心が休まらなかったこと、
打ち合わせのため休職期間中の夜に、一度会社に向かい
会社のビルの下で泣いてしまい同期に迎えに来てもらったこと、
これらはかなり印象的に覚えている。
打ち合わせでは気を張りすぎてニコニコしていたからか
会社を出てから歯がとても痛くなった。
(私は愛想笑いを長時間続けると歯が痛くなります)

7月5日。短い休職を終え会社行かなければならない前日は、
両親が関西から東京まで車で来てくれた。
彼と4人でスーパーで買い出しをし、まったり過ごし、
久しぶりの母の手料理を楽しみ、楽しく話した。

翌日になって、やはり私は会社に行けなかった。
「申し訳ございません、やはり出社できそうにありません。」
そんな連絡をしなければならなかった。
『わかりました。今週は休んで、また来週様子を見ましょう』
このように返された。

翌週も、その翌週もこれを繰り返した。
しっかり療養し最速で復帰したくて診断書を書いてもらったのに、
休職中心が休まることはなく、結局休職期間は延長になった。

2か月目の休職

ここからは、研修当時の上長とも、配属予定先の上長とも
連絡を取ることなく平和に休職期間を過ごすこととなる。

橋渡しとなってくれたのは、総務部のお姉さまだった。
彼女には5月頃にも女性ならではの悩みで相談に乗ってもらっていたし、
「休憩時間中はしっかりと休んでいいのよ、ながら食べは消化に悪いから」
とランチタイムにご飯に集中して良いきっかけももらっていたため、
私は勝手にとても頼りにしており、話もしやすかった。

過去に同じような経験や休職の経験もある彼女の提案で
私は業務用PCと業務用携帯を会社に返した状態で
2か月目の休職を迎えることとなった。

業務用端末を返すための彼女との打ち合わせは、
オフィス近くのカフェで行うことになっていた。

会社の最寄り駅に近づくにつれ、動悸がするようになってきた。
気のせいかと思い、駅の手前で立ち上がるも止まらない。
駅に停車し、焦りながら改札へ向かうも、動悸はどんどん激しくなる。
改札を出てからは、涙目になりながらカフェに入った。
席に着きお水を頼み、彼女を待つ間
不安な時に飲むようにと言われていた頓服薬(クロチアゼパム)を飲んだ。

会社に近づくだけでこんなにしんどくなると知ったのは、驚いた。

しばらくして彼女が到着し、ケーキを頼み、世間話をした。
そのあとは事務的な手続きを行い、またゆるりと話していた。
その中で聞かされたのは、彼女が8月で会社を退職することだった。

入社前憧れていた先輩は5月で退職した。
大好きな先輩も8月で退職すると聞いている。
さらに彼女まで退職するのか、と悲しくなり、泣いてしまった。

今思えばこの時から、わたしは退職することを決意し始めたように思う。
人がいいからと会社に残ることは間違っているが、
それでも私にとって、それほどまでに彼らの存在は大きかった。

本当の意味での休職すたーと

PCなどを返し、やっと私は本当の意味で休職できるようになった。
実家に帰ったり退職を決意したことはまた今度気が向いたら残そうと思う。

書いてみてやっぱり、なんのために書きたかったかはわからない。
でも、理由なく何となく書いて投稿するものがあってもいいよなぁ
なーんて思ったり。


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