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第50回「Goto トラベルで横浜へ~横浜と下田を浮遊する」

  gotoトラベルを利用して、横浜に行ってきた。

 都会は、約10ヶ月ぶりである。東京の有楽町で開催される予定だった移住相談会も、いまではオンラインとなり、出張もなくなり、自粛ムードでもあったので、渡りに船のgotoトラベルで、ここではないどこかの空気を、無性に吸いたくなったのだ。

 1泊2日の小旅行に過ぎなかったが、ほんと旅はいい。頭が実にスッキリとする。

 今回初めて、横浜のみなとみらい線に乗った。開業してすでに16年も経っているが、地下構内の広い空間が新しさを感じさせる。元町・中華街駅は、真っ白で、壁に横浜の古、明治時代の写真がオマージュのように大写しに浮かび上がるデザインである。

 僕はしばし、この空間で、ぼんやり写真を眺めていた。

 写真にはキャプションはなく、しかし、かつて横浜がどうであったかを思わせる、にくい演出である。

 ほとんどの乗客は、見慣れているのだろう。誰も立ち止まって眺めることなどはない。こんなものをしばらく暇そうに眺められるのが、旅行者の特権だ。

 翻って、下田の町中にも、写真好きの人たちが、古い時代の写真をショーウィンドーに飾っていたりする。多くが明治から昭和にかけて、昭和初期の写真が最も多そうである。

 写真がある程度、簡単に撮れる時代にならないと、写真の数は多くならない。

 伊豆半島南部は、明治に入るや、養蚕業や造船業、遠洋漁業、船輸送が盛んになって、バブルになった。それが昭和初期まで続いた。写真の数の多さは、伊豆南部バブルとは無縁であるまい。

 シベリア鉄道は、ちょうど伊豆にバブルが訪れていた1917年に全線開通している。

 世界では、富裕層に人気の世界旅行ブームに拍車がかかった。日本でもシベリア鉄道開通を機に、大陸から下関、横浜を通ってアメリカにという、インバウンド政策が繰り広げられるようになる。日本で洋風ホテルの建設ラッシュが始まり、伊豆高原の川奈ホテルが、日本初ゴルフ場付きのホテルとして開業するのが、1936年である。

 その2年前には、下田で黒船祭が始まっている。現在まで80回を数える。

 第1回黒船祭には、アメリカ大使をはじめ、日米の錚々たるメンバーが馳せ参じている。この祭の発祥となる墓前祭を始めたのが、渋沢栄一というのも興味深い。渋沢曰く、「墓は人を呼ぶ」のだ。下田の玉泉寺にアメリカ海軍兵士の墓があったことが、この祭りの核心である。

 ちなみに渋沢は、明治神宮建立にも尽力されている。この神宮という名の明治天皇の墓を建てることで、動乱の時代に楔を打ち込んだのである。

 横浜のみなとみらい線で、僕はこんなことを夢想していた。そしてホテルに泊まり、観覧車に乗り、ショッピングして下田に帰った。

 その翌日、NPOの事務所にいると、朝一番で、約束のあったHさんが現れた。スラリとした品のいい男性である。

 彼とは初対面だったが、少し話をしただけで、僕は彼のおじさんにあたるKさんの面影を見た。

 元大手企業の副社長だったKさんは、ドバイの王族とプライベートジェットでロンドンまで飛んだ話など、下田に来るたびに聞かせてくれた。いまでも下田に歴史的建造物である家を持ち、2年ほど前までは、Kさんが管理していた。

 Kさんがお亡くなりになり、これからはHさんがその家を管理するという。

「いろいろな方にお話を伺い、これからの家の利用法を考えようと思っているんです」

 Hさんはゆったりした口調で話した。

「今のまま、家を閉ざしておくのは、口惜しいのです。様々な観光の場面で、当家の屋敷を取り上げていただいているにも関わらず、この町のためになる活動ができていないので」

 僕の脳裏に、横浜での写真がよぎった。

 下田は昭和の町である。大切にしてきたというよりも、平成以降すっかり町が凋落し、濡れ落ち葉のように昭和が残された。しかし、旅行者目線では、そこがまたいい。映画のセットのようだと思うこともしばしばである。店のショーウインドーに昭和の写真を飾っている所も多い。しかし、寄る年波には勝てずに、年々写真の数が減っているような気がする。

 そしていつか写真の数々は、散逸してしまうだろう。

 みなとみらいの駅のように、写真をデータ化し、残すことはできないか。

 これまで幕末開国で売ってきた観光の町下田に、「昭和の町」といった新しいイメージを植え付けるのだ。

「下田昭和写真館をやってみませんか? 写真はみんなから集める。デザインは、写真好きのデザーナーに任せて、町のランドマークにして、まちなか観光の拠点にするのです。導線が見えないこの街で、昭和を軸に、町を見せるんです」

 僕は、おもわず熱っぽくHさんに語りかけていた。

「下田昭和写真館」……どうです、みなさん?

 僕は横浜と下田の間で揺れ動いていた。

 そういえば、日本の写真の祖とされる下岡蓮杖は下田出身である。彼の写真館が、横浜馬車道通りの「全楽堂」で、馬車道通りと呼ばれるようになったのは、蓮杖が日本初の横浜~品川間の馬車輸送を始めたからである。

 みなとみらい線の駅にも、馬車の写真が飾られていた。

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