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胸に響くフロア

友人からライブ映像を共有してもらった。雑音が小さなライブハウスに響いている。そこはどこかわからない。機材のセッティングをしているようだった。

音楽が鳴りはじめると、ステージで演奏している人々のからだは、初めからその動作が決まっていたみたいに自然に動き出す。演奏が始まって15秒くらい経つと会場の最前列の観客も、同じように横へ縦へ、からだを揺らす。他者に向けてそれらの表現を言葉という箱に入れて伝達すると、どこか気恥ずかしくなる。ライブに参加したことのない人や、大型ライブに参加することが多い人にはもしかしたらわからない「ノリ」なのかもしれない。どこか冷笑的に、「陽キャ」の消費物として対治されることがある。自分自身も小さなライブハウスでのライブやロックフェスに参加するまでは、「ノリ」を遠目で見て、どこか客観的に嘲笑うような感覚で片付けていたこともあったように思う。

知っている。小さな会場に敷き詰められる。そこはとても狭く、気づくと見知らぬ人に足を踏まれたり、人の数が多すぎるあまり、どこか心細く寂しい。周囲の騒音が大きければ大きいほどに、自分という意識が乖離して、意識はどこかの宇宙に広がって、僕というひとりの中で膨張していく。そういうふうに感じることを僕は知っている。
ステージにパフォーマーが上がり、特大のスピーカーから胸に響く音が鳴る瞬間、今まであった雑念はすべてどこかに消えていく。消えていくというよりも音がステージから後方に向かって流されていくように、その流れに乗り、自分の中にある雑念も一緒に波に攫われてどこかに消えていく。気づくと自分のからだが動く。そこにいる人々全体に伝染していく。蛍の同調発光を思い起こさせる。一匹が光るとそれが周囲の三匹に伝染する、その三匹から十匹に伝染して、気づくと蛍という集団の発光タイミングが同一になっていく。

『「本当の自分」はなんだろう。』という問いはきっとだれしも一度は考えることのように思う。考えたところで、それぞれの自分を認めていくことしかできないようにも思う。平野啓一郎さんの「分人主義」が頭をよぎる。分人主義の説明を見るとこのような記述がある。『「分人」は、対人関係ごと、環境ごとに分化した、異なる人格のことです。中心に一つだけ「本当の自分」を認めるのではなく、それら複数の人格すべてを「本当の自分」だと捉えます。この考え方を「分人主義」と呼びます。』
音楽をしている彼を見ていると感じることがある。複数の人格すべて「本当の自分」だと思う。でもきっとそのなかには、じぶんを好きだと思う自分、生きる喜びを感じる自分。自分の中でも、それぞれのじぶんが自分に影響を与える割合は違うようにも思える。

その場は目に見えない音の振動をそれぞれが感覚的に共有している。その振動に同調するように自分のからだも動いているのかもしれない。床から足先の感覚を通して、じぶんの繋がりを感じ、そのフロアを水で満たしていくように、人に伝わる。

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