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小説「武光と懐良(たけみつとかねなが)敗れざる者」30


第六章      遭難


三、

矢筈岳(やはずだけ)、別名八方が岳(やほがたけ)は菊池の北部、背後は大友領、側面は山鹿に境を接する標高一〇五二メートルの休火山で、山腹は浸食が激しく、急な崖が多い。
東の優美な鞍岳(くらたけ)に比して男性的な姿が猛々しくも思える。
その矢筈岳が御所の火灯窓越しに大きく見えている。
懐良(かねなが)は終日ぼんやりとその姿を眺めながらため息をついている。
懐良の身の回りを整えてあげたいと世話を焼こうとするが、心を開かぬ親王に対し、慈春尼の娘重子(しげこ)姫はなす術がなかった。
親王はまだ武光に怒っていた。美夜受をも許せない。
おのれの立場の虚しさに苛まれていた。どうしようもない孤独をもてあましている。
懐良の奥方となった重子姫は御所へ通い、かいがいしく下働きの者たちを指図して家事をこなした。こんな田舎にお留まり頂くことに対し、都や吉野にはかなわぬまでも、精一杯おいしいものをと毎日心を砕いた。そんな重子が頼りにしている土地の者たちの中に、龍門の嘉平(かへい)という猟師がいた。折しも御所の庭に来ている。
「まあ、見事なシカ」
「罠にかかっておりましたばい、ぜひにも宮様のお口にと思いまして」
鹿を前に嘉平が青ざめた顔で重子に目を合わせずに答えた。
懐良が縁台に姿を現してきて鹿をしげしげと眺めた。
嘉平は驚いて平伏したが、嘉平が猟師なのを見て取り、
「嘉平と申すか、来てくれ」
と先に立って縁台へ招き上げた。
嘉平は恐れ入って震えが来たが、仕方なくついていった。
「あの山」
と、懐良が指さした。
御所の高台から見えている悠然たる霊峰、矢筈岳。
「いい山だ」
という親王に、恐れ多いのか口もきけない嘉平に代わって、ついて来た重子が答えた。
「矢筈岳でございます、どこから見ても同じように見えるので八方が岳とも申しますが、八方からの敵を押し返すという意味だとも」
「険しそうだな」
「山の神に許されたものしか入れぬそうでござります、獣を取る猟師か、炭を焼く杣人(そまびと)、さもなければ修験(しゅげん)の荒法師だけ、…菊池の守り山でござります」
カニのはさみ岩などの岩峰が背後にそびえているという。
中腹までは花崗岩だが、その上部には輝石安山岩が覆っている。
「険しそうだ、確かに神の山かもしれぬな、…山の神に許されなければ、どうなる?」
と、嘉平に質問を向けた。
嘉平がおどおどすると重子が目で許可を与え、嘉平がやっと答えた。
「雷に打たれて死ぬ…」
「そうか、…雷に打たれて死ぬか、…嘉平、明日、わしをあの山へ案内せよ」
えっ、と嘉平が顔を上げ、重子が慌てた。
「あの山へ?いえ、明日では困ります、護衛の者の支度もございます、せめて三日をご猶予いただかなくては」
「そ、それに」
嘉平が必死に何かを伝えようとする。
「なに、嘉平」
と、重子から水を向けられ、嘉平が空を指さした。
「嵐が近づいており申すで」
見れば確かに西の空から低い雲が広がってきている。
「明日から崩れるばいた」
「面白い」
と言い出す親王の顔に何やら凄惨な表情が浮かんでいる。
「嵐をついて登り、南北朝統一の悲願成就の祈りを捧げてこようではないか」
「なにをおっしゃいますか」
「おおけな嵐になり申す、山は遊びで入るもんではなか」
気色ばんで止める嘉平だが、親王は笑う。
「死ぬならそこまでの運命(さだめ)だろうよ」
と呟く。
え、となる嘉平。
「嘉平、明日、案内せよ」
嘉平の顔が一瞬、苦しそうに歪んだ。


3、守山城主郭小


嘉平の家は矢筈岳のふもとにある。
猟と炭焼きをして妻子を養う粗末で小さな家が木立に囲まれてある。
既に怪しく吹き始めた風が木立を騒がせ、嘉平の小屋に吹き付ける。
その我が家に浮かぬ顔で帰った猟師嘉平の足が止まった。
家は薄暮の中でわずかな煮炊きの煙を吹き散らされているが、静まり返っている。
嘉平の顔に脂汗が浮かぶ。
震えながら家に忍び寄る嘉平は、そこで立ち尽くし、恐ろしい予感にさいなまれる。
だが、中に入るしかないと思い、勇を鼓して戸口に手をかける。
戸を開けて中に入ると囲炉裏に火がくすぶっていて、黒い人影がうずくまるようにいる。
矢敷宗十(やしきそうじゅう)が嘉平の女房と娘に刀を突き付け、酒を飲んでいる。
十二の娘はこわばって眼だけで嘉平を見やる。
女房は裸にむかれて素肌をさらして横たわって動かない。
明らかに嘉平の留守中、宗十は嘉平の女房を犯し、性欲の処理を済ませている。
「うわあああーっ」
嘉平が喚いて掴みかかろうとするが、すっと伸ばされた光り物を目にしてへなへなと腰が抜けた。宗十が薄ら笑いを浮かべた。
「…親王の様子はどうじゃ?…山へ誘い込めたか?」
嘉平は泣きながら、ついに矢筈岳登山のことを言ってしまう。
「明日、…親王さまをご案内する」
「明日だと、…上出来じゃ」
宗十の顔にひきつった笑いがこぼれた。

翌日、まだ雨は降りてきていないが、風は騒いで雲が早い。
「出よう」
嘉平を案内に立て、親王が御所を出る。
「なりませぬ!山は恐ろしゅうござりますぞ」
重子が強く制しても、親王は頑なに意思を曲げない。
重子は仕方なく中院義定(なかのいんよしさだ)を見やった。
義定がうなずき、太刀を取った。
「来るな、義定、私と嘉平とで行くのだ」
親王はうるさがったが、中院義定が引き下がるわけはない。
じっと懐良を見据えて態度は揺るがない。
懐良はふんと鼻で笑ってさっさと足回りの支度にかかった。
嘉平は体の震えを必死にこらえている。
義定が親衛隊士たちに集合をかけた。
「蓑笠(みのかさ)を持て、親王さまの分もだ、行く先は矢筈岳」
支度を整えた中院義定と親衛隊士たちが先に出た親王と嘉平を追う。
迫間川沿いの小道を辿り、親王と嘉平は龍門を目指している。

菊池本城御殿の奥の間では武光が頼元と政務について相談している。
政府に対して裁判沙汰の訴訟や土地の権利についての争いごとが後を絶たず持ち込まれ、それを勅旨をもって一々裁いていかねばならず、実務を担当する頼元は繁忙を極めた。
その内容は、水争いに端を発した村同士の合戦の裁きに至るまで、際限がない。
一番の難題は南朝に与してきた武士共への報奨金の捻出だ。手持ち資金が足りない。
幾日も泊りがけでの裁決が続き、武澄や城隆顕、赤星武貫たちは屋敷へ引き取っている。
そこへ重子が慌てた様子でやって来る。
「武光様、親王様が矢筈岳へ向かわれました」
「なんじゃと?」
「嵐が迫って危のうございます」
はっと顔を見合わせる武光と頼元。
「行きたいとは申されておったが、こんな日に⁉」
「行きたいとはなぜ?何のために⁉」
「いや、それは」
頼元の答えははかばかしくなく、武光は焦れて隣室へ叫んだ。
「筑紫坊!」
隣の間から筑紫坊が入ってきて平伏した。
「追って引き戻せ、わしも太郎を連れて矢筈岳へ向かう」
うろたえた頼元が自分も行くという。
「足場が悪うござるが」
といったところで、頼元が行かないわけはないと思い、武光はうなずいた。

龍門の勢返しの滝を過ぎ、親王は山深く入っていき、龍門を超え、班蛇口(はんじゃく)の里を迫間川(はざまがわ)沿いに登り、八方が岳の麓にとりつく。
既に追いついた中院義定と親衛隊士たちが付き従う。
蓑傘(みのかさ)をつけた一同が黙々と進んでいく。
懐良は押し黙って歩く。
案内する嘉平が風の強さを見て不安な顔をする。
遠くで雷鳴の轟が聞こえる。
嘉平がたまりかねて親王を振り返った。
「嵐が来るばいた、親王様、引き返そう」
というが、親王は聞く耳を持たない。
「面白いではないか」
中院義定が不穏な上空を見上げる。

親王たちがたどったであろう道筋を追う武光たちだが、雨が落ち始める。
「ああ、雨が」
危ないと思う頼元。
「蓑笠はお持ちであろうか?」
「案内の猟師がおり申すで」
太郎がせめてもの慰めを言うが、頼元はいらだつばかり。
「急ごう、武光殿」
「!」
武光はひたすら歩みを進めた。
武光の胸は怪しく騒いでいる。武光は南朝にかけた。すべては懐良の存在から始まっている。牧の宮懐良親王を担いでいればこそ、自分が菊池に君臨する意味がある。
皇統統一という壮大な夢のもとに菊池をまとめ上げる大義もある。それが失われれば、菊池はおそらく分裂する。武光にとって、懐良は守らなければならぬ金烏の御旗そのものだった。それにしても、親王はなぜ八方が岳になぞ。
都の貴種に山の恐ろしさが分かるのか。いや、分かってはいまい。
この天候で山へ入れば無事には帰れまい。一刻も早く連れ戻さなければならない。
追いつけるのか⁉
武光の足はしゃにむに先を急ぐ。
眼は前方に黒々とわだかまる巨大な山塊に引き付けられた。
無事でいてくだされ。宮様!
武光の息が荒くなる。



《今回の登場人物》

〇菊池武光(豊田の十郎)
菊池武時の息子ながら身分の低い女の子供であったために飛び地をあてがわれて無視されて育つ。しかし父への思慕の思いを胸に秘め、菊池ピンチの時救世主として登場、菊池十五代棟梁として懐良親王を戴き、九州統一、皇統統一という道筋に菊池の未来を切り開こうとする。

〇懐良親王(かねながしんのう)
後醍醐帝の末子。南朝巻き返しの最後の希望となって征西将軍とされるも流浪の果てに菊池武光に迎えられ、やっと希望を見出す。武光の支えで九州を統一、やがて東征して皇統を統一するか、九州王朝を開くかの岐路に立たされる。

〇五条頼元
清原氏の出で、代々儒学を持って朝廷に出仕した。懐良親王の侍従として京を発ち、親王を薫陶し育て上げる。九州で親王、武光の補佐をして征西府発展の為に生涯を尽くす。

〇五条頼氏
頼元の息子。

〇中院義定(なかのいんよしさだ)、持房親子
公卿武士、侍従。

〇池尻胤房、坊門資世
侍従たち。

〇慈春尼の娘・重子姫
懐良親王の妻となる。

〇猟師の嘉平(かへい)

〇矢敷宗十(やしきそうじゅう)
あぶれ武者から流れ野ぶせりになった男。

〇筑紫坊(つくしぼう)
幼名を均吾という武光の幼友達で、後に英彦山で修業した修験者となるが、その山野を駆ける技を持って武光の密偵鬼面党の首領となり、あらゆるスパイ工作に従事する。

〇緒方太郎太夫(おがたたろうだゆう)
幼名は太郎。武光の郎党。長じては腹心の部下、親友として生涯を仕える。









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