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小説「武光と懐良(たけみつとかねなが)敗れざる者」32


第六章     遭難



五、
 

懐良(かねなが)は嘉平(かへい)が消えて、初めて不安にとらえられていた。
死にたいと思ってはいたが、それは消極的なもので、闇の山中に一人放り出されてしまうと、恐怖心が込み上げてきた。山には人を怯えさせる気のようなものがある。
懐良は山を降りたい一心となっていた。
それが巨岩怪石に行く手を阻まれる。
親王はカニのはさみ岩に出くわしていた。
嵐は豪雨と強風となって親王を叩きつける。
懐良には地獄の入り口に思え、人間界から隔てられた気がした。
(死ねというのか、山の神よ、死ぬとも、どこだ!?どこがその場所だ!?)
やけくそな気持ちが沸き起こり、山の神に挑むような気持になった。
岩に登り、懐良は眼下に遥かな断崖が屹立しているのを見る。
前方には闇が広がっており、稲妻が走って広大な空間が見えた。
懐良は世界に自分がただ一人だと感じた。
孤独の真っただ中にいた。
その背後の森に影は迫っている。
矢敷宗十(やしきそうじゅう)が追いついてきた。その目が岩の上に立つ人影を認めている。宗十は、懐良をとらえたと確信し、抜刀、迫る。
岩を降りようとして、懐良が腰をかがめた。
この時、懐良は背後からくる影に気づき、その影が太刀を抜いているのを見た。
再度雷鳴がして稲妻が走り、宗十の殺気立った目が見えた。
懐良は戦慄した。
懐良は死神が襲い掛かってこようとしていると感じ、逃げようとする。
岩にすがりながらさらに下方に逃げようとする。
それへ宗十が回り込んで追いすがる。
雷鳴と稲光、豪雨!
岩場を離れ、斜面にかかって走ろうとする懐良だが、落ち葉に滑って足を取られた。
宗十が覆いかぶさるように迫ってくる。
懐良は太刀を引き抜き、恐怖心に操られてぶん回した。
それでも相手が鬼神ではなく、刺客であるとは判断した。
「お主は山の神ではない、おぬしの手にはかからぬぞ!」
「お前様の首が欲しいのじゃ!」
追いついた矢敷宗十と争闘となる。
数度太刀が激しく打ち合わされたが、懐良の太刀が飛ばされた。
懐良は凍り付いた。
宗十が突きを入れてくるが、辛うじてかわしながら懐良は足を滑らせて再度落下する。
転がり落ちて小さな岩場に叩きつけられた。
「ううう」
矢敷宗十が降りていき、迫る。
目をぎらつかせながら、宗十が笑った。太刀を振り上げた。
親王絶体絶命だった!
懐良の首が落とされる!
その時、武光が間に合った。
小柄を投げた武光。
その小柄を背中に受け、矢敷宗十が振り返る。
武光は抜刀しながら走った。
「武光か⁉」
武光を認めた宗十が反射的に武光に向かっていく。
武光も走った!
激怒していた。むきだしの激情がほとばしる。
親王様を害しようとした外道!八つ裂きにしてくれる!
雷鳴が二人を照らし出し、互いの刃が光りながら交差した。
「お前から先に殺してやる!」
と、宗十は思い、武光は、
「矢敷宗十、下司め!」
と怒りに太刀を任せた。
二人は戦いながら岩から岩へ移動した。
肉弾戦闘となれば、宗十に分はない。
武光は総身が殺意そのものになり果てている。
武光の延寿国広が宗十の無銘の雑刀を叩き折った。
さらに打ちこまれ、宗十は鍔(つば)で受けるのがやっとだった。
武光の勢いが宗十を押し込める。宗十は斬られる!と思った。
宗十は内心、泣きそうな絶望感にとらえられ、妻子を想った。
野伏せり時代にどこかの村からさらった女が他に生きるすべがなかったのだろう、なぜかついてきて、いつの間にか夫婦のような関係になり、やがて娘が生まれた。
妻子は他郷で宗十からの連絡を待ちながら貧を極めた暮らしの中で待っている。その二人に情が生じてまともな暮らしをさせてやりたいと思った。
それで菊池にいついて慈春尼に取り入り、用人(ようにん)になったが、欲が出た。
親子三人、少しでもいい暮らしをしたいと思った。
生まれの卑しさから来た上昇志向で、それが執念に育って、やがて出世のための調略を考え出した。バカなことをした、と今初めて後悔した。実入りは十分でなくとも、慈春尼の用人として妻子を迎え、菊池の一員になればよかったのか。
その瞬間、武光の延寿国久が宗十の顔面に叩きこまれていた。
「がああっ⁉」
宗十が崖から落下する。悲しい悲鳴を上げながら落下して、遥かな下方まで小さくなり、岩に叩きつけられ、腕と首が飛び、片足が引きちぎれてさらに落ちた。
「宮様!」
武光は親王の傍に行き、助け起こした。
武光の脳裏からはすでに宗十の存在は消えている。
「武光か」
懐良の声を聞いて武光は心から安堵していた。
生きて取り戻すことができた。そう思って胸が高鳴った。
「もはやご安心召されよ、さあ、山を降りまするぞ」
懐良は捻挫か骨折か、自分では歩けそうもなく、武光が肩を貸した。
担ぎ降りて行こうとするが、雨風が激しすぎる。
足を滑らせた!
 
頼元、筑紫坊や太郎たちが必死に親王を探している。
豪風雨となって、山は荒れ狂っている。
たまに稲光で木々や山容が見えることは見えるが、足ははかどらない。
「親王さまーっ!」
何度も叫んでみるが、風に吹き流されて声は先まで届かない。
方向を失っている。懐良を探すどころではない。
見つからない、自分たちも遭難するかもしれない。
別な森の中で中院義定も必死に親王を探していた。
これもすでに迷っている。
四方を見やって木々が騒いで方向に見極めがつかない。
立ち尽くして呆然となった。
 
藪に受け止められて武光と親王は斜面の途中に引っかかっていた。
「もはや動かぬ方がよかです」
親王を寝かせ、小枝をかき集めてかぶせかける。
風雨を避けきれず、火は起こせない。
懐良の意識がもうろうとし、がくがくと震えていることに気づく、
「お寒うござるか」
武光は懐良が体温低下のために危ないことを見て取った。
最早移動もままならず、意を決する。
懐良の上半身を脱がせ、自分も裸になって掻き抱く。一瞬、恐れ多い、とも思ったが、火急の際だと遠慮を押さえた。その上から着物を被った。
必死に親王の体を摩擦し、互いの体のぬくもりで体温を保持しようとした。
懐良の身体は冷え切っていた。きめの細かい肌がつぶだって青ざめている。
武光は力いっぱい抱き寄せた。互いの鼓動が響きあうほどに。
親王は熱に浮かされうつろな意識となっている。
「わたしは…」
親王は絶望感にとらわれ、死を意識している。
「ここで死ぬべきなのかもしれぬな」
「何をばかんこつ、しっかりしなされ」
「武光、…やりきれぬのだ」
「え?」
親王は朦朧とした中で武光に本音を伝えようとした。
「…幼い頃、父、後醍醐帝に使命を託され、征西将軍というたいそうな役を振られた、だが実際は落ち武者も同然のみじめな道行きでさまよったよ」
「何を言われる」
初めて親王の内面を聞かされ、武光は驚き、戸惑った。
「…わたしの運命はいつも周囲の武士たち次第だった、…味方に付いてくれればいいが、突然寝返って敵方につき、わたしの首を土産に北朝に取り入ろうとしたものは数知れぬ、…阿蘇家はあれだけ五条頼元が頼んでも頼んでも、ついに助けに動いてはくれなんだ」
蓄積されてきた思いの言葉が口を突いて出て、次第に激していく。
「菊池にしてからがそうだ、わたしと武光の首を取って北朝に寝返ろうとした勢力があったのを、お前が剛腕で従わせた」
懐良の顔は雨でずぶ濡れだったが、涙もあふれ出している。
怒りや虚しさ、哀しみが迸り出る。
「宮様」
と言ってみるが、武光に言葉は継げない。
「わたしは何もしていない、わたしはただ言われた通りに動いてきたお飾りだ、…皇統統一を本当に果たしたい訳でもない、やれるという自信もない」
やりきれない感情が爆発している。
「頼元の言うことも、菊池の者共の期待も、…わたしにはどうでも良い」
その投げやりな言葉が武光を当惑させる。
「私がしてきたことは何だ、…ただ寄る辺なくさ迷い歩いて味方してくれと懇願しただけではないか、味方すれば所領を安堵し、地位を与えるという空手形に近い報酬を乱発したが、それにどんな実質的意味があると言えるのか、わたしに中身はない、わたしは征西将軍という名の虚しい紙人形だ!」
初めて懐良が苛まれている心の痛みの正体を知った武光だった。
「違うか、武光!…わしにはやり遂げたいという執念がない、想いがない、虚無だ、虚無だ!」
懐良が嗚咽し、武光は親王の本音を見た。孤独を知った。
切なくなってしまい、武光はさらに強く親王を抱きしめていた。
「そいでもよかです、…ただおってくださるだけでよか」
親王がおぼろな目つきで武光を見上げた。
武光が何とか慰めたくて必死に言葉を探しが、口先で何か言える男ではなかった。
同じく父の苦難の道を引き継いだ志ではあったが、親王と自分ではずいぶん違う、と武光は初めて思い至った。親王はその使命の中に己を見出せず、虚無の思いに苦しんでいる。
自分は焼きつけられた武時受難の日の業火の記憶に苦しみ、それを跳ね返そうと少弐憎しの妄念に焼かれてすべてを巻き込み、復讐への道を突き進んでいる。
だが、と武光は親王を見返る。
自分は親王様と大差ない、自分が本当は何を求め、何をなしたいのか、分かっているつもりで、実は分かってはいないのかもしれない、…菊池をまとめ上げ、征西府の元に北朝勢を平らげ、それで自分はどこへ行こうとしているのか、…どこへ行きつけば心が満たされるのか。親王の喉から嗚咽が漏れ、体を震わせて泣いていた。
武光には親王の悲しみが身に染みた。共感していた。
その肩をさらに武光が抱きしめた。
頼りなげな体が武光にぴったりと寄り添って震えている。
ほつれ毛が細く長く武光の頬に絡みついてきて、武光ははかない人だ、と思った。
まじかに見る親王の顔は青ざめていても美しかった。
自分でも思わぬ言葉が口を突いて出ていた。
「貴方を最後まで必ずお支えします。…見つけなされ、おのれの行く道を」
嵐は吹き止まない。
二人は身を寄せ合って嵐に耐え続けた。
 
夜が明け、嵐はやんだ。
光が辺りに満ち、武光は藪から這い出した。
武光は崖がそこにあり、あと一歩で危険だったことを知るが、肥後全域さえ見晴るかせる広大な景色が眼前に展開しているとも知る。
親王も這い出して来て、武光が駆け寄り支えた。
「お身体は?」
「ああ、…大事ない」
武光は安心して大きくため息をついた。ご無事に朝を迎えられた。
昨夜は親王がどこか遠い世界へはかなく消えてゆくかと感じ、失いたくないとの思いで必死に抱きしめ続けた。だが今、親王は自分と共にこの世にある。
その世界はかくも輝いている、そう感じた。
二人はその壮大な景色に感動する。
大地は遥か彼方まで広がって果てしない。
「美しい、…肥後の地は、…こんなにも美しいのか」
懐良が思わず漏らした言葉だった。
背後に太陽が昇ってきて、二人をその光が刺し貫いた。
二人と一帯、全てが光を受けて輝いた。
武光の内部であらためて一筋の道が明確に見えてきていた。
「意味があろうとあるまいと、…むなしい道であろうとあるまいと、…北朝を倒す以外にあなたとおいが生き延びる道はなかです」
懐良が武光を見やった。武光の顔には確信があった。
「その道はこの大地が支えてくれ申す、…菊池に夢を下され、…あなたにはそいができる、…あなたさえおってくだはるなら、おいは菊池から始めて、この国の皇統を統一いたす、必ずやり遂げて見せまする」
肥後の国が見渡せている。
 


《今回の登場人物》

〇菊池武光(豊田の十郎)
菊池武時の息子ながら身分の低い女の子供であったために飛び地をあてがわれて無視されて育つ。しかし父への思慕の思いを胸に秘め、菊池ピンチの時救世主として登場、菊池十五代棟梁として懐良親王を戴き、九州統一、皇統統一という道筋に菊池の未来を切り開こうとする。
 
〇懐良親王(かねながしんのう)
後醍醐帝の末子。南朝巻き返しの最後の希望となって征西将軍とされるも流浪の果てに菊池武光に迎えられ、やっと希望を見出す。武光の支えで九州を統一、やがて東征して皇統を統一するか、九州王朝を開くかの岐路に立たされる。
 
〇中院義定(なかのいんよしさだ)、持房親子
公卿武士、侍従。

〇緒方太郎太夫(おがたたろうだゆう)
幼名は太郎。武光の郎党。長じては腹心の部下、親友として生涯を仕える。

〇筑紫坊(つくしぼう)
幼名を均吾という武光の幼友達で、後に英彦山で修業した修験者となるが、その山野を駆ける技を持って武光の密偵鬼面党の首領となり、あらゆるスパイ工作に従事する。
 
〇猿谷坊(さるたにぼう)
筑紫坊の相方で、鬼面党の首領の座を引き継ぎ、武光の為に諜報活動にあたる。

〇矢敷宗十(やしきそうじゅう)
あぶれ武者から流れ野ぶせりになった男。
 


 


 


 


 

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