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小説「武光と懐良(たけみつとかねなが)敗れざる者」⑩


第2章  菊池奪回戦

二、


17、聖護寺への道小

その夜中に鷹取城を抜け出したのは武士(たけひと)だった。
この非常事態の中、わずかな護衛の兵士を伴っただけで鷹取城をすべり出し、さらに山奥の鳳儀山聖護寺(ほうぎざんしょうごじ)を訪ねようと、武士が険しい山道をよろばうように行く。迫間川を辿って遡り、朴木川(ほうぎがわ)に沿って脇手へ入り、鳳儀山の山頂近くに聖護寺はある。そこには武士が師と仰ぐ大智禅師(だいちぜんじ・五十九歳)が、粗末な墨染めの衣に身を包んで、質素な山居をしながら境涯を磨いておられる。
聖護寺は聖福寺と違い、公案は用いない曹洞宗の寺である。
只管打坐がもっとうで、悟りさえ目指さぬというのが建前だ。
大智は山門の前の岩場で早暁座禅を終え、朝課に移ろうとして、武士の一行が登ってくるのに気が付いた。わずかな供ぞろえで登ってきた武士の蒼ざめてやつれた顔を見れば、合志勢の侵略が聞こえていたこともあり、大智には状況が手に取るように分かった。
暑い日差しを避けて方丈へ招き入れ、朝粥を与えて落ち着かせ、話を聞いた。
「もはや、わたくしには何をどう考えてよいのやら」
今回だけではない、ずっとこの状態が続いている、という武士。
何を提案しようと様々な意見が出されて、武士の意見は退けられる、棟梁として何ができるのか、武士はすっかり自信を失っていた。
十三代武重(たけしげ)の代から菊池本家は絶対の権威を失っているのは明らかだ。
当時の武家は本家庶子家の分裂領地争いに悩まされており、本家は力を付けた庶子家に圧されていた。菊池一族とて例外ではなく、それが「よりあいしゅないたんのこと」という取り決めを庶子家から、表向きは合議の上であったが強要されていた事実に表れている。
よりあいしゅないたんのこと、とは菊池家憲とも呼ばれる寄合内談衆の協議の事で、武重と内談衆の間で取り決めのなされた菊池の掟である。菊池の棟梁の言い分よりも上に立つとされた取り決めで、一族とは何か、武家とは何を信条として生きるのか、が規定された。

一、 天下の御大事は内談の議定ありというとも、落去の段は武重が所存に落とすべし。
一、 国務の政道は内談の議を尚すべし、武重すぐれたる議を出すというとも、管領以下の内談衆一統せずば、武重が議を捨てらるべし
一、 内談衆一統して菊池の郡においてうたえ事(以下判明せず)を禁制し、山を尚して五常の議(茂生の樹)を磨(増)し、家門正法と共に竜華の暁に及ばん事を念願すべし
謹んで八万大菩薩の明照を仰ぎ奉る
                    藤原武重  花押血判
延元三年七月二十五日

要は棟梁の勝手にはさせないという庶子家の意向に沿った、家憲というには怪しげな一文だった。大智としても武重に相談され、菊池のために良かれと思ってこの取り決めに賛成したが、今では分からなくなっていた。武士がこの取り決めの為に追いつめられていることは明らかだった。人が相談し合うという事にはどこか危うさが付きまとう。
武士はもう、うんざりだった。そのうえ、この合志一族からの攻撃だ。
「皆がおのれのえてがってに狂うばかりで、正道が通りませぬ、菊池の一族がどうなろうと、私にはもうどうでもよか!」
大智の口からため息が漏れた。
「武士殿は仏道にもう一段踏み込むしかないのかもしれませぬな…」
大智禅師は肥後宇土郡長崎村に生まれ、永仁四年七歳で川尻の禅寺、大慈寺に入った。
禅を学ぶこと天性の才があったと言われる。
その後総持寺(そうじじ)に学び、長じては元に渡って学び、加賀に祇陀寺(ぎだじ)開山住職となっていたが、やがて菊池武重に請われて菊池入りをしていたものだ。
住したのが菊池隈府の北方一五キロの鳳儀山聖護寺。
それは小さな修行道場の山寺で、史家によれば、武重によって党的団結の中核として招聘したとされるが、大智禅師ともあろう高僧が党派の為や、武士団誰彼に味方したり敵対したりして禅の教えをないがしろにするとは考えにくい。
おそらく鎌倉幕府時代の北条氏が武士の魂のよりどころとして禅を学ぼうとした故事に倣い、菊池の武士も生き死にをかけた戦場に赴く身として、明確な死生観を打ち立て、死への恐怖を克服する道を模索するため、菊池武士団の精神の支柱に禅の教えを皆で掴もうとしたものであろう。大智禅師もその心根に打たれて菊池入りし、贅沢な大刹を望まず、山深い小庵を望み、応えた武重は鳳儀山中に聖護寺を修行寺として建立、わずかな土地を寄進して寺の糧としたものだ。
鳳儀山は峩々たる山中にあり、菊池のものは隈府から相当な思いでもって谷を辿り、尾根を辿っていかねば聖護寺には行きつけない。
そこで行われた禅師の指導とはまさに只管打坐(しかんたざ)、一切の妄念を捨てて一跳直入如来地(いっちょうじきにゅうにょらいち)の座禅ただそれだけであったろう。
しかし、菊池の武士からすれば守護として統治の悩み、敵対する勢力への対応策に対する心構えなど、様々に相談案件が出てきてしまったものと思われる。
それに対して無碍(むげ)にもできず、求道の道筋に沿いながら現状に対応する心の持ち方の手ほどきをしたに違いない。その先に「よりあいしゅないだんのこと」もあるのだ。
「ご老師様、…重いのです、…苦しいのです、…近頃は息もでき申さぬ」
武士の精神は既に限界にきている、と大智は見た。
しばらくじっと考えて、やおら口を開いた。
「…降りなされ、…手に余るなら投げ出せばよい」
「しかし、それでは菊池の棟梁としての分が立ちまっせんばい!」
「なに、なるようになり申す、…大事ない」
武士は呆然としたまま大智の顔を見つめた。

18、鳳儀山聖護寺小


《今回の登場人物》

〇菊池武士(きくちたけひと)
菊池第一四代棟梁。武光の兄。落ち目の菊池を支えきれず仏門に逃避する。

〇大智禅師(だいちぜんじ)
曹洞宗永平道元禅師六代の直嗣である高僧。武重に招かれ聖護寺開山として菊池一族の尊崇を集めたが、菊池を掌握しようとする武光の為に追われるようにして菊池を去る。




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