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夫婦別姓でも同姓でもない私と苗字の関係

去年フランスに滞在していたとき、ともだちが
「いづみ、私、署名から苗字を外すことにした。家族の名前と決別して、これからは自分の名前だけでやっていく。これはひとつの大きな決心だ」
と真面目な顔で言ってきた。

彼女はアーティストだから、作品に署名をする。フルネームで書いていたその署名を、これからファーストネームだけにする、ということらしい。

へー、そうなんだ。それはそれでいいんじゃない?
と気軽に答えた私だったけれど、実はそこには自分のアイデンティティにつながるものが隠されていたのだなあ、と後になって気がついた。今日はそんなお話。


ファミリーネームは家族に属するもので、
ファーストネームは自分に属するものだ。
日本語では苗字と名前というけれど、「お名前は?」と聞かれたら、苗字を答えることのほうが多いかもしれない。

最初に結婚した時、30年連れ添ってきた自分の「名前」が結婚で奪われることに対して、私はこれっぽっちも納得できなかったので、入籍をしても外向きは旧姓を使用した。
パスポートも免許証も何もかも、公的なものは、これまで見ず知らずの場所にあった別の名前に書き換えられてしまったけれど、自分が作り上げてきた友人関係や仕事は旧姓で通した。
私にとってはもう、本能的に生理的に、生まれた時からの名前を変えることに対しての強い違和感というか、抵抗感があったように思う。「名前」を外側の力で変えらるのは、これまでの自分の存在を無にされるような、何かとても不自然な出来事のように感じていた。

ま、それは「私が」そう感じていただけのことで、古い名前を捨て去ること、新しい名前で生きていくことが喜びや充足となる人もたくさんいるはずなので、要は「名前」と自分との関係性は十人十色であると同時に、思いがけずその人の深い部分と結びついているものなのではないか、と思うわけなんだった。(その選択を迫られる大半が女性だ、という理不尽さは置いておいて)。


それだけ抵抗があった「新しい苗字」を、私は結局、離婚後名乗ることになる。

ただただ、子どもに負担をかけたくないという思いからだった。
私は、いい。仕事も、友人関係も旧姓で通してきたから、表向きの生活はそのままでいられる。
ただ子どもだけが、親の都合でさまざまな場面にさらされる。突然、別の名前で生きていけと言われて、好奇の目にさらされる。理不尽すぎる。

子どもを守るという一心で、旧姓に戻ることはやめ、私は公的には、赤の他人となった夫と夫の家族の名乗る苗字のまま生きることにした。すでにこの時でもう

名前は、ただの記号だ

と思えた。

余談だけれど、離婚時に別れた夫の姓を選択して、その後再婚して改姓した場合、その結婚が破綻した時に戻れるのは旧姓ではなく、一つ前の、最初の夫の姓のみってことを知っている人はどのくらいいるんだろう。
もし子供がいたら、その子たちは見ず知らずの他人の姓を名乗ることになる。
夫婦別姓が家族を壊すという人がいるけれど、苗字と家族はちっともリンクしていないんだよ、って私などは思う。


ところで、私は仕事は旧姓のまま続けたので、実は、昔旧姓で作った銀行口座を残したままにしていた。

その、旧姓の入った通帳を、私は処分することがずっとできなかったんだ。それがたった一つ、公的な場所に残った私の旧姓だったからだと思う。

それをやっと、昨日処分した。

その名前でずっと仕事も交友関係も続けてきたけれど、もうそれも必要としない自分を発見して、
なんかね、
思いがけず、ちょっと感慨深かった。

今思えば、何をこだわっていたのかなあ、と思う。
でもそのこだわった年月が、自分の歴史でもあって、20代の私に一足飛びに「名前なんてただの記号だ」という今の心境になれというのは、無理なことじゃと思うんだった。

今は新しいパートナーと住んでいるけれど、これから自分の名前を変えるつもりもないし、変える意味もない。ただただ、私にとってはもう他人の人のアウエィな苗字のまま、今も生きている。

苗字はその家族の歴史だという人もいるけれど、今の私の苗字は私とは関係ない場所にいる人たちのもので
それでも私は私で、ゆるぎなく、ファーストネームの自分は存在し続けている。「家族の姓のない、ファーストネームの私として生きる」決意をした冒頭のフランスの友達のように。


名前なんてただの記号。
でも、その記号はその人と深いところでつながっている。
その深い大事な部分で、長いことなぜこんなふうに振り回されてきたんだろう、と純粋に不思議に思う。


人それぞれが、それぞれの思いに沿ってアイデンティティを保持できる形の名前を名乗れる社会であってほしいなあ、と願って。

今日はそんな思い出話でした。





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