懐かしさと切なさのはざまで
日常のふとした瞬間に、不思議な気持ちが込み上げてくることが増えた。それはたぶん、長年住んだ家を手放して、新しい暮らしを始めたからなのだと思う。
今日の夕食に何を作ろうか、と考え出したとたんに、ああ、これは前の家でよく息子との夕食に作ったメニューだったと思い、瞬間、切り取られた食卓の風景が脳裏をよぎる。
急に、胸がキュッと締め付けられて、そのままその彼方に連れ去られそうになり、あわててそこから戻ってくる。なんというか、「逃げ帰ってくる」感じに近い。
この気持ちは何かに似ているなあと考えて思いついたのは、「切ない」という言葉だった。
すべてが切ないわけではない。
新しい街が大好きだし、生まれ育った街とは早く決別したかったのになかなか離れられなかったのだから、今ここにいれてとてもうれしい。
もうとっとと手放したかったこともたくさんある。
でも、何かの拍子に心に飛び込んでくる風景が、「切ない」という想いを連れてくる。それは「懐かしい」ということなのかなあと思うのだけれど、どこか懐かしいとは違う感情で、それが最近とても面白いなあと思っている。
能動的に手放した何か。
もう戻らない何か。でもそれは自分が望んで進んだ道の後ろにあるもので、「失くしてしまった何か」とは違うのだけれど
どこかで体や心の一部だったところが空白になったことへの
気持ちの反応なのかなあ、と思う。
ああ、これは子育てでもよく感じていたことだったのではないか。
小さかったなあ。
電車が大好きだったなあ。
そんな時があったなあと思うとき、心はどこか、小さく切なかった。
懐かしさという言葉を調べていたら、日本国語大辞典によると
というのがあって、
とある。
私が最近感じる切なさは、リラックスやくつろぎはもたらさずに、そのままだと「悲しみ」のようなものに連れ去られそうになるので、あわててその気持ちに浸るのをやめる部類のものだ。
これは懐かしさとは違うのかな、なんという言葉で表したらよいのかな、と思っていたら、懐かしさの定義というのは
なのだそうだ。
反復と空白。
たとえば学生時代に聴きまくったユーミンを、改めていま聴くとか。
すりきれるまで読んだベルバラをまた読むとか。
空白が必要らしい。
懐かしいってそういうことなのかしら。
だからみんな、懐メロみたいなものを聴くのかしら。
子供時代に住んでいた家の風景を思い出すとき、そこにあるのは切なさではなく懐かしさだし、息子が赤ちゃんの頃の写真を見ても、切なさは感じない。ただただ、懐かしい。
いまある「切なさ」は、やがて空白の時間を経て、懐かしいという気持ちに変わっていくのかな。
どんなに楽しくて前向きなことの中にも、変わっていく道のりには切なさがあるのかもしれない。
懐かしさと切なさのはざまで。
まだもうちょと、たゆたっていくのかな、と思う今朝でした。
今年も桜が咲き始めたー。
今年は隅田川の桜を、見に行こうかなと思います。
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