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実家のクリーニング店の閉店に際し



先月、実家のクリーニング店が完全に閉店しました。

結婚してから、20数年離れていたとはいえ、
物心ついたときから、お店と作業場があって、
子供のころは、それこそ、九州や四国などからの住み込みの職人見習いの方も同居していて
当時、めちゃくちゃビビッていた職人さんもいて
ほんとうに大所帯でした。

でも、最後は、4代目の弟と母だけ

最後の営業日も、駆け付けたら、あまり、しんみりとした雰囲気もなく、二人がいつもどおりに仕事していました。本当は、関係者も呼んで、お疲れさまでした、という会でもしたかったのですが・・・そういうこともなく、普段どおり、最後の営業日のシャッターが降ろされました。

きっかけになったのは、
父が今年の元旦に急死したこと

それがきっかけで、実は、もともと調子の悪い機械以外で
父が、修理しながらだましだまし使っていた機械も
これ以上、使い続けるのは「ムリ」となり
さらに、燃料や材料コストの高騰なども相まって
そろそろ、潮時か、、となったみたいです。


そもそも、曾祖父が大正9年に創業したクリーニング店
戦争があったときは、機械も差し押さえで使えなくなったり
曾祖父や祖父が徴兵されたりで、
数年は閉店せざるを得ないときもあったようです。

戦後、場所は移転しましたが、お店が再開し
祖父が、頑張ってお客さんを増やし
さらに、父も、本当は後を継ぐ予定ではなかったものの
結果的に、後を継ぎ、父も高度経済成長期など
休日返上、夜も遅くまで仕事し、
店舗も増やして、めちゃくちゃ頑張って働いたそうです。

私は、お店あるきで、他の店舗のパートさんが急なお休みで
母が駆り出されるときは、自分も一緒に行き
お店のカウンターで宿題したり、、

母が忙しいので、小学生くらいから
晩御飯など作れるものは作ったり
年末は、お店の後方でお手伝いもし、
ほんとうに、いろんなことがあったけど
すべてクリーニング店が中心だったような気がします。

先月、閉店して、今日、機械を引き取りに業者さんがやってきて
機械をどんどん運んでいったそうで
それを辛いから、見ないと言っていた母も
結局、いろいろと目の当たりにして、
最後、お店の作業の要で動いていたボイラーが運び出されたときは
涙が流れた、ということでした。

まあ、私も同じ場所にいたら、泣いてしまっていたかもですね。

うちみたいな個人のクリーニング店も、この10~20年くらいで
ずいぶん閉店したようですが、
本屋さんもしかり、家電のお店もしかり、お肉屋さんも、金物屋さんも
どんどん個人のお店が閉店し、
昭和どっぷりの私は、心から寂しいなと感じ
今、頑張っている、地元の個人商店は応援したいと思い
買い物して、食べたものや、買ったものをインスタグラムにアップしたり
とにかく、応援したいなと思っています。


クリーニング店はなくなったけど、
お店に、結果的にしばられて好きなことができなかった弟は
遅ればせだけど、ようやく、誰にも文句言われずに
クリーニング店の跡地で第2の人生を始められます。
それは、ほんとうに喜ばしいことだなと。

80数年、曾祖父、祖父、父、弟がつないだクリーニング店が終わるのを悲しみつつ
弟の新たな第一歩、新しい夢を改めて応援しようと思いたいです。

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