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気持ちいいお産っていうのがあるらしい最終回

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家族で過ごした出産劇

陣痛が本格的に始まって、怖いだろうが不安だろうが、やっぱりもうやり切るしかない訳で。
覚悟が決まってからは真摯に向き合うことができたのかなとは思う。

当時、コロナ禍だったがラッキーなことに夫と長男マルが立ち合うことが許された。
助産院の方針だろうか。今はどうしているのかはわからないけど。
助産院へ向かうタクシーに乗りながら夫に連絡してたので、彼は保育園でお昼を済ませたマルをピックアップしてからこちらに合流してくれた。

見たことのない母親の姿や血を見せるのはどうなのか、と出産に立ち合うか否か散々話し合っていたけど、あっさりマルは私のところにやってきた。

夫に関して言えば、出産時に余裕のなくなった私は取り返しのつかない暴言を吐くんじゃないだろうかと不安に思っていたこともあったし、立ち合ってもらうことを願望していた訳ではなかった。

ところが、ふたりが部屋に入ってきた時に夫の声を聞いて、とてつもなく安心したのだった。
マルはその小さな小さな手で私の背中を一生懸命さすり、「がんばれ〜がんばれ〜」と励ましてくれていた。

そして助産師さんは代わる代わるやってきたけれども、一度も私を一人にすることなく、私の腰や足をずっとさすってくれていた。

これもホルモンのしわざか

夫もマルがいたことでリラックスしているように感じた。
マル出産の時に見せていた、不安そうで情けない顔は一切していなかったもの。(笑)
マルは私の体をさすったり触ったり、ベッドで一緒に横たわったりして過ごしていた。

そんな中、面白いことが起こった!
担当してくれた助産師さんの一人が、

もう頭が出てきてるよ!触ってみる?

というのだ。
私は恐る恐る自分のおマタに手を回してみた。
すると、頭頂部に触れたのだ。
しっとりと濡れた髪の毛が確かにそこにある・・・!
生命を感じた。もうそこにいるんだ!

そのことが私はなんだか、ものすごくおかしくなって大爆笑してしまったのよ。

後、一回か二回いきんだら出てくるよ!

この言葉にまた大爆笑。
・・・自分が謎すぎた。

いつも子どもは事のシンプルさを教えてくれる

結果、一回や二回ではその後なかなか出てきてはくれなかったんだけどね。
頭が大きかったのか、おマタにハマっちゃってる感覚がありそれがだいぶ長く続いた気がする。
その後、きっとこのいきみが最後になるだろうな、という感覚がわかった。

ひとりの助産師さんが、マルに手招きして抱っこしてくれていた。
赤ちゃんが出てくる瞬間を見せようとしていたのだ。

夫は「怖かったら行かなくていいんだよ、マル・・・!こっちおいで・・・!」と言うものの、たいそうに怖がって、彼は私の顔の横から一切動かない。

マルは抱っこされながら、泣きも怖がることもせずにじーっと見ていた。
母親の股の間から血まみれの赤ちゃんが出てくるところを。
彼にはわかっていたんだ。
これは、私たち動物にとっては当たり前のただの生理現象なんだってことをね。

不思議と彼のその態度は私に力強さを与えてくれた。

そうして、2020年4月20日午後3時。
大爆笑の後に次男咲良くんは無事に生まれてきてくれたのだった。

天国なんかじゃない

自分の体の力と赤ちゃんの生まれてくる生命力を最大限生かして出産に挑めば最高に気持ちいい出産となるでしょう・・・。
この予言めいた魅惑の教えを体験してみたくて助産院での出産を選んだわけだけど、やってみて思うこと。

エクスタスィー♡・・・とかじゃねぇ。笑

いや、普通にめっちゃ痛いし。あっちの世界に行っちゃいそうなくらい気持ちいいって言ったの誰だよ。ってのがリアルな感想デシタ。

ただ、出産した翌日にお産を手伝ってくれた助産師さんとお話したことは今でも私の中で残っている。
昨日は幸せなお産に立ち合わせてくれてありがとうねと言ってくれたのだ。
私はすっかりエクスタシーを感じられなかったことで、気持ちいいお産云々について忘れていたのだが。

あんな風に笑ったりできるっていうのは、上手にホルモンが出ていた証拠だよと教えてくれた。
確かにそうかもしれないなぁと私も振り返っていた。

自力で産んだぞという感覚がかなり強くあった。
正解とか優劣の問題ではないけれども、マルの出産に関してはこういう気持ちを持たなかった。

あれから1年4ヶ月。
エクスタシーではなかったけど、めちゃくちゃ楽しかったなぁと振り返る思い出になっている。
今日も眠りにつく時、あの日に立ち戻り、そして幸せな気分になれるのだ。

結果として、それは私にとって宝物のような体験となった。
エクスタシーではなかったけど、そうだね、あれは幸せなお産だった。

楽しく幸せなお産を終えて、長男に思う事。クライマックスはここ。

そして、どうしても拭えない感情があるのよ。
長男の出産は、どう考えても楽しくはなかった。
笑顔になんて一度もなってないし、産後振り返っても幸せに満ちているものではない。いまだに。

この対照的な2つのお産を体験することで、長男もこんな楽しい出産で迎えてあげられればよかったのにな・・・となんとも言えない、ふがいなさが確かに存在していた。

それは妊娠期間中の過ごし方、体の変化への注視、そして出産そのものの捉え方に対して不足があったのでは?もっとできたんでは?
「後悔」という言葉が残念ながらぴったりな気すらする。
そうだ、私は私の行いに後悔しているんだ。

それでもマルは愛にあふれた家族の一員になれて幸せじゃないか、と何度も言い聞かすのだけど。
この記事を書き進めるうちにどんどん無視できない感情となって露見していってしまった。

そんな中、先日知り合いの助産師さんとお話する機会があり私は思い切って聞いてみたのだ。
次男の楽しいお産が大好きな体験となった反面、初回のお産の悲劇さが際立つことを。

彼女は「私の長子の出産なんてほんっとサイアクだったよ!」と言い放った。
妊娠出産にまつわる体の機能については超専門の彼女ですら。
楽しいお産を(もしかしたら気持ちいいお産も)現場で目の当たりにしてきたであろう彼女ですら!
続く言葉に、私の心はどんどん軽くなっていったんだ。

・初めての出産なんだから当たり前
・知識があればいいってもんじゃない。頭で考えちゃうから
・きょうだいどちらが先に生まれてくるかってのもじゃんけんして彼らが勝手に決めてきてるんだから私たちがどうこういえることではない

そして、「強烈なインパクトとして覚えておいてほしいと母親に願って生まれてくる子もいるからね、それが「後悔」という感情だとしても。全部お見通しだよ、彼らは。」と伝えてくれた。

この話は私のもう一つの宝物となった。
後悔というインパクトを残してくれたマルがいたから、生まれてくることが叶わなかった子の存在があったから、咲良くんにも出会えたし、楽しい出産を体験することができたんだねぇ。

私はもしかしたら、ようやく自分を許し始めることができるのかもしれない。
過去を振り返った時に初めて点が線になるとジョブスは言ったそうだけど、あの時の後悔というひとつの点があるから今日までの線がつながり、そして未来への道標になるんだろう。

振り返ったその線の延長線上に私は今いて、その線は幸せなものであると感じているのだから、後悔があったっていいはずじゃないか。

そしてやっぱり家族の形も家族の数だけ存在している。それは出産も同じだね。
全く同じ人がいないから、だから助けてもらえる、共感がある。
十人十色という言葉の持つパワーがここにきて本領発揮しているよ。

全部お見通しな息子たちと、夫と私。
私たちの場合、こうして我が家のメンバーがついに出そろったってわけ。


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