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【10分de短編小説】人生のしょっぱいとき

ずいぶんと寂れた場所まで来てしまった。とりとめのない物がギュウギュウに詰め込まれて膨らんだ小さなリュックサックを隣に座らせて、無人駅のホームでベンチにひとり腰掛けける。人影のない駅では持ち主の帰りを待つ自転車だけが、この町にも住民がいることを知らせている。時刻表を見る限り次の列車は当分来ないのだけれど、計画を持たずに旅をしている自分に電車のダイヤなど関係のないことだった。

できるだけ遠い場所へ行こうと、昨晩ふと布団の中で思い立った。職場の近くにあるという理由だけで借りた1Kの小さな部屋に散らばった荷物をかき集めて、僕は逃げるように早朝の町を出発した。職場には連絡しなかった。電源を切ってあるスマホには、おそらく着信履歴が溜まっているだろう。

先ほどまで乗っていた2両編成の電車の乗客は、僕以外に数人の高校生だけだった。朝から疲れたふうに座席にどっぷりと浸かって眠っている子もいれば、英単語帳を熱心にめくる子もいた。いずれにしろ彼らは制服を着ているだけで、まるで将来を約束されているかのようだった。いったい自分はどこへ向かえばいいのだろうと窓の外を見やるのだけれど、そこには春を待つ殺風景な田んぼが広がるばかりだった。

ついにたまりかねて駅の名前も確認せずに開いたドアから飛び出してしまったけれど、近くにはコンビニの気配すらなさそうだ。朝からなにも食べていない身体はエネルギーを求めてギュルギュルと鳴り始めている。周辺のお店を探そうと思うのだけれど、スマホの電源を入れるのが億劫でなかなか行動に移せない。現実世界から逃れられる場所はどこにもないという事実を、小さな文明の利器は僕にまざまざと突きつけている。

ここではないどこかを求めて旅をし続けたら、一体どこへ辿り着くのだろう。ベンチに座りながら思い切り手足を伸ばして、僕は澄み切った冬の青空を仰いだ。どうやらこの寂れた駅のホームも、僕が辿り着きたい場所ではなさそうだ。深い深呼吸をした後、思い切ってリュックサックの奥底に埋もれていたスマホを取り出した。


「今から駅まで迎えに来ていただくことはできますか?」

「わかりました。10分後くらいになると思います」

ナビアプリで周辺を調べると、お店の類は何一つない代わりにレンタカー屋が一軒あった。電車に待ちくたびれたこともあって迷わず電話をかけると、すぐに車を用意できるとのことだった。

スマホには案の定、職場から着信履歴があった。たった五人で切り盛りする高級イタリアンレストランの職場では、いかに役立たずの若造でも一人が欠けると大きなダメージを受ける。「連絡待ってる」というシェフからのLINEには既読をつけず、僕はスマホを握りしめて車の到着を待った。

大学を卒業して二年の月日が過ぎた頃、いい加減働こうかなと思うようになった。人並みに就職活動は努力したけれど、学生時代を単調に過ごしすぎてしまった自分に救いの手を差し伸べてくれる企業はひとつもなかった。自己PRが弱いからだと周りからは散々アドバイスをくらったけれど、自分の性格や経歴を現実以上に美化することはしたくなかった。ありのままの自分を否定され続けた一年間を経て、僕は何のやる気も湧かなくなってしまった。

唯一大学時代に頑張っていた居酒屋のアルバイトを思い出して、料理人として生きていくことに僅かな希望を抱いて今の職場に辿り着いた。シェフは面接で空欄ばかりの僕の履歴書についてなにも言及してこなかった。「これから目指したいことはある?」というたった一つの質問に対して、「一人前の料理人になりたいです」という相変わらず何一つ工夫のない返事を繰り返した。それでもシェフが僕を雇ってくれた理由は、相当な人手不足かもしくは未来のない僕の人生への同情だったかもしれない。

「お待たせしました。後部座席へどうぞ」

迎えに来たレンタカー屋のスタッフは、僕と同い年くらいの若い男だった。坊主頭にバンダナを巻いた作業服姿の彼は、接客業というよりは現場仕事で一汗流してきたような雰囲気だった。一体なぜこんな辺鄙な駅の近くにレンタカー屋があるのだろうかと、いかにもらしくない彼を訝しみながら「よろしくお願いします」と頭を下げる。お店までたった数分の距離にもかかわらず、彼はわずかな沈黙を嫌っていろいろと僕に話しかけてきた。

「やっぱりこの辺に来たら、伊勢神宮に行くといいですよ。外宮と内宮のふたつがあるんですが、観光客はよく内宮だけで済ませてしまうんです。でもそれは片詣りと言って実はマナー違反なもんで、外宮を詣ってから内宮に行くのが正式なルートですね」

とくに計画を立てていないという話をしたら、おすすめの観光スポットの話になった。たしかにレンタカーを借りたところで、行く先が決まっていなければどこにも出発できない。電車と違って車は自分でアクセルを踏まなければ動いてくれない。そういえば今日のホテルも予約していなかった。

「あとは海の方へ行けば、キレイな海の絨毯が見れます。今はちょうどアオサノリのシーズンですからね。知ってました? 三重県はアオサノリの生産量日本一なんです。味噌汁に入れるだけで絶品ですよ」

レンタカー屋に到着すると、そこでは数人の若い整備士がツナギを着て作業していた。どうやら田舎町の車屋が小遣い稼ぎにレンタカー稼業も始めたようだった。可もなく不可もない軽自動車を格安で契約して、目的地も決まらないままスタッフの見送りに急かされて出発した。とりあえず海の方へ行くことにして、僕は南の方角に向かって車を走らせた。


一時間ほど経った頃、ようやく車は海へと突き当たった。どこか海を見渡せるスポットはないかと、今度は車を海沿いに走らせる。入り組んだリアス海岸のクネクネ道に酔いそうになって窓を開けると、冬の冷たい空気と共に潮風の匂いが吹き込んできた。

「お前はこれから何を目指していきたいんだ?」

事あるたびに始まるシェフの説教が行き着くのは、必ずといっていいほどこの質問だった。人を育てることが自分の使命だと、この前カウンターの客とワインを飲みながら話していた。カウンターは常連客、テーブルは新規や団体客という決まりごとがこのレストランには存在している。クセのあるシェフの持論をつまみにワインを嗜む常連客は連日途絶えることがない。

「今の時代は情報がたくさんある。選択肢もたくさんある。たしかにそれは良いことだけど、ちょっとでも合わないと感じると今の若い子はすぐ辞めていく。仕事してたら辞める理由なんていくらでもあるでしょ」

営業前に仕込んだ前菜を皿に盛り付けながら、否が応でもシェフの言葉は僕の耳に届く。もしかしてシェフはあえて僕に聞こえるように話しているのではないだろうかといつも思っていた。小さな厨房で身を寄せ合うように働く他のスタッフは、シェフに話を振られると調理をしながら小気味よく笑う。あえて聞いていなかったフリをして「え、何ですか?」と驚いた表情を作る僕は、相変わらず社会不適合者を続けていた。

「しんどいこと。辛いことを経験しないと、その先にある楽しいことに辿り着かないのにね。もったいないことしてるなって思うよ」

シェフが客に向かって語る言葉はなぜか僕に向かって流れてきて、その言葉は呪文のように僕がこの職場を立ち去ることを拒んだ。

「お前はこれから何を目指していきたいんだ」

レンタカーを運転しながら、頭にこびりついたシェフの言葉を口に出した。けれども言葉が僕から離れる気配はなくて、どこへ向かうにしろ僕はその言葉と共に旅をしなければならないようだった。

突然木々の隙間から青色に光る海が見えて、その前に砂利の敷き詰められた広い駐車場が現れた。後ろから車が来ていないことを確認して、僕はハザードランプをたいてブレーキを踏んだ。いつの間にか海抜0メートルの地点まで下ってきたらしく、砂利の駐車場はほとんど海と同じ高さにあった。道路を挟んだ反対側には、少し高台になった場所に魚屋が立っていた。ずいぶんと年季の入った建物だけど、店頭には営業中の旗がなびいている。

結局朝からなにも食べずにここまで来てしまった。とっくに昼時は過ぎているというのに、考えに耽っていると食べることすら忘れてしまう。腹が減って仕方がないという消化器官をぶら下げて、なにか食べるものはないかと僕はお店の扉をガラガラと開いた。


「言ってくれればどれでもすぐに捌いたるでな」

狭い店内には客を出迎えるように冷蔵ショーケースが置かれていて、その中にはまだ捌かれていない丸の魚がズラリと並んでいた。ショーケースの向こう側では老夫婦とその息子らしき三人がせっせと魚を捌いている。僕が入店するとすぐに、割烹着に身を包んだおばあちゃんが声をかけてくれた。

「どっから来たんや。このへんの人ちゃうな」

近くにこれといった観光地のない場所ゆえに、どうやら通りすがりの客は物珍しいようだった。それでもおばあちゃんは作業の手を止めて、僕のために店頭に並ぶ魚を一つひとつ説明してくれた。

「京都から来ました」

そう答えるとおばあちゃんは目を丸くして、「なっとして京の都からこんなとこまで」と心底驚いた様子で僕を眺めた。そして「学生さん?」とさらに質問を畳みかけてくる。海辺の田舎町ならでは距離感の近さに戸惑いながら、僕は当たり障りなく質問に応じた。

「いえ。働いているんですけど、たまたま会社が休みになったので…」

実は会社が辛くて逃げ出してきたと言ったら、このおばあちゃんはどんな反応をするのだろう。どうしてこんなところまでやってきたのかという質問は、このままはぐらかせば答えなくて済みそうだ。これ以上自分のことを話題にしてほしくなかったので、僕はぎこちなく咳払いをして狭い店内をグルグルと見回した。おばあちゃんはそんな僕の素振りを気にする様子もなく、「ようお越しくださいました」と深々頭を下げて魚の説明を再開した。

結局一通り教えてもらったところで魚を選ぶことができず、オススメの魚をいくつか見繕ってもらうことにした。ショーケースの後ろでカンパチとヒラメが刺し身になり、これから昼飯にいただくことを伝えると白米もサービスしてもらえることになった。今度は僕が深々と頭を下げて店を後にした。

ようやくご飯にありつけることに一安心して車のエンジンをかけた時、お店からおばあちゃんが飛び出してきた。ビックリして運転席の窓を開けると、おばあちゃんは息を切らしながら僕にサンマ寿司を手渡してきた。

「これ、ちょっとしたもんやけどお土産にどうぞ。遠いところからようおいでくださいました。またいつでも来てくださいな」

僕がお礼を言い終わらないうちにおばあちゃんはまたテクテクとお店の中に戻っていった。人の親切というものは、こんなにも心に染みるものだっただろうか。僕は手渡されたサンマ寿司を持ちながら唇をかんで、先程までズケズケ質問してくることを億劫に感じていた自分をじっくりと恥じた。

お店に戻ってちゃんとお礼を言うことにして、僕はエンジンを止めて再び店に向かった。店内に入ると今度は息子さんがショーケースの前に立っていたので、「先ほどはサンマ寿司をありがとうございました」ととっさにお礼を言って深々と頭を下げた。「えっと……」と戸惑う息子さんのところへ、おばあちゃんが慌てて駆け寄ってきた。「わざわざ京都から来なさったから、お土産を持たせてあげたの」とまるで弁解するように息子さんに話しかける。

その様子を見て、僕は自分が失敗したことを悟った。

おばあちゃんは独断で僕にサンマ寿司を手渡してくれた。それは僕とおばあちゃん二人だけの秘密だったのに、どうして僕はそのことに気づかなかったのだろう。はじめは戸惑った表情をしていた息子さんも、「どうぞお気をつけて」と苦笑いで僕を送り出した。おばあちゃんが怒られませんようにと心の中で祈りながら、僕は足早にその場を立ち去った。


海沿いにちょうどいいベンチを見つけて、僕はそこで昼飯を食べることを決めた。いくらか坂道を登ってきたみたいで、海を一望できる特等席だった。刺し身と白ご飯をベンチに広げて、いただきますとひとり手を合わせる。

本当なら今頃は、ランチ営業が一段落してスタッフでまかないを食べている頃だった。職場のみんなに迷惑をかけてしまったことへの罪悪感がじわじわと押し寄せてきて、贅沢な昼時を過ごしている自分がうしろめたくなる。

最後に出勤した日、まかない当番だった僕は茶碗蒸しを作った。ランチとディナー営業の合間で段取りよく作らなければならないから、まかない作りは常に時間との戦いだった。余り物でメニューを考えて、いつもより早く出勤して朝のうちに用意をしておく。まかないの時間ギリギリに鳴った蒸し器のタイマーを止めて、急いで取り出した茶碗蒸しは何故か固まっていなかった。干し椎茸の代わりに生しいたけを入れたことで水分量が増したことが原因だった。僕はドロドロの茶碗蒸しを同僚たちに食わせるハメになった。無言で食べていたシェフが最後に発した「準備が足りなかったね」という言葉に、僕は「すみませんでした」という一言を何とか絞り出した。

シェフはいつも僕の将来のことを真剣に考えていてくれた。でも僕はどう努力しても自分の人生を前向きに考えることができなくて、次第にシェフを避けるようになってしまった。シェフの期待は僕にとって重荷だった。技術も経歴もない僕を雇ってくれたシェフに、僕はなにか一つでも返せたことはあっただろうか。

刺し身と白米を食べ終わり、最後に残ったサンマ寿司を頬張る。それがあまりにも美味しくて、自然と涙が溢れてきた。とめどなく流れる涙が唇にあたって、サンマ寿司がしょっぱくなる。鼻水をすすりながら、必死で最後のひと切れを口の中に詰め込んだ。

泣きたいときは泣けばいい。人間は涙を流して辛いことを乗り越えていく生き物なのだ。空になったトレーを片付けて、僕はスマホをポケットから取り出してシェフからのLINEに既読をつけた。海の上ではアオサノリ養殖の筏が緑色の絨毯のように広がり、太陽の光を浴びてキラキラと光っていた。

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