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指輪ができるようになるまで

それはほぼ自分デッドストック。
十数年越しにクロスで磨いてみた。ほう。
好みが変わってないということでもある。

20代中盤、金はない。
デッサンして帰る途中、新宿ルミネエストのH.P.FRANCE(当時)で見かけてずっと欲しかった指輪を買った。ジャンクなピアス以外で宝飾品を欲しいと思ったのは初めてだった。幅広で可愛すぎず、いかつすぎず、表に見せない断面のジルコニアがとても良かった。なんていうか、「同意」「こうありたい」と思った。こういうのは思い込みが大事で、それが全てだ。

指輪を身に付ける習慣も機会もなかったが、付けてみると評判はそこそこよかった。メカニックの友人だけが「ベアリングかと思った」と言った。「ペアリング(pair ring)」ではない。「ベアリング(bearing)」で合ってる。ググって画像を見て「その通りだな」と思った。その辺も含めて良かった。しかしベアリングを指にはめてたらそれはもうほぼナットを指輪に仕立てた武田鉄矢じゃん。浅野温子じゃん。101回目のプロポーズじゃん。そこそこしたんすよ。やめてもらっていいですか?
で、なんせボリューミーで当時生活の大半を占めていたデッサンをする間画板が持ちにくかったりバイト先での洗い物のたびに外したりが煩雑で、毎日するのはやめた。するとあえて付ける機会はなくなってしまった。

久々にクロスで磨いてみたら相変わらずキュンとした。おや、なんか今しっくり来るんじゃない?

今の方が指輪を身に着けたい機会が多い。それは「アーマードしたい時」だ。これはラジオでRHYMESTER宇多丸氏と宇垣美里氏が「戦う時は身に付けるピアスや指輪の数が増える」「ああ、アーマードねー」と話していたのを聞いて「うわ、まさにそれっすわ」と気付いた。今戦ってるんすわ。過労時にライオンの頭部を象った指輪とかライオンが宝石を咥えている指輪の画像検索結果を眺めてうふふと心が落ち着いたことがあったが、それもそういうことなんだろう。その「ネコ科強いぞリング」は買わなかったけど(冷静になれば金持ちマダム感強し)、そのアーマード理論は腑に落ちた。ヴィヴィアンの甲冑リングほど直接的でなくても我々はそういうモードに入る。

そんなわけで指輪がやっとできるようになった。買いたいと思った時の「こうありたい」の部分だと思う。人は他人のアクセサリーをどうとも思わないし、どちらかと言えば威嚇でなく防御の方だし、気にせず気分が上がるところまでアーマードしたらいい。こういうのは気分だから。
テレビで宮根誠司さんがピアス(正しくはピアスっぽく見えるイヤリング)をして出演し「なんかこう気分が変わりますね」と言っているのを見た宮根さん世代の男性に「そういうものなの?」と聞かれたことがある。「そういうつもりで付けていればそうなりますね」。こういうのは自分が設定した気分で、その思い込みのまま意外にもちゃんと成立する。

嬉しかったのは、e.m.が今も制作を続けていて、この型が10年・20年と愛されてきた定番コレクションのひとつになっていると知ったとき。何もしてないのに謎の自慢したい気持ちが生まれた。良いものを作り続けてくれてありがとう…
あの時の自分、ナイスチョイス。

デッドストックと断捨離は真逆の概念

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