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EAT IT 食育と私

「食育」という言葉はまだなかったが、食の教育はしっかり受けてきた。給食センターが頑張っている自治体で、定期刊行の給食だよりの内容が充実しており、セラミックが開発された初期の段階から実験的に小中学校でプラスチック製の食器の代わりにセラミックを使用し、その後完全移行した。

母も食に関しては信念があった。祖父母と一緒に暮らしていると味付けが濃くなりがちなところ、出汁を効かせた薄味に慣れさせようという意思があった。
それゆえに染みついてきた習慣と罪悪感で今でも食べたくないものがある。
(以下は全て昭和時代の一個人の一意見)
「果汁100%以外のジュース。特に無果汁のものは匂いと色をつけた砂糖を飲んでいるだけなので買わない」
「鍋は一人一鍋。大鍋で作ったものをつつかない。祖父(家長)の衛生観念に基く意向なので従う」
「ラーメンの汁は全部飲むものではない。塩分過多。かつ飲み干すのは下品」
「とんかつ・からあげは確実に火を通すため長めに揚げる(ゆえに衣が苦い)」
「スナック菓子。美味しいのは分かる。揚げていないカール推奨」
「ファストフード店のハンバーガーは広告イメージを売っている。紙袋から出して見るとこんなもの。これを買わせるために一回の食事でゴミが出過ぎる。テイクアウトは家に大量のゴミも持ち帰ることになるので、食べるならモスバーガーの店内利用。モスは食器で出るからOK。ゴミもバーガーを包む紙くらいしか出ない。企業として信用できる」など。
ファストフードのくだりはこうして文字に起こしてみるとかなり強い主張だが幼心に衝撃と共に腹に落ち、現在パッケージデザインとかしてるなりにいろんな意味を持って頭の中にある。

無意識の習性が表出して「これも食育のせいか(≒成果)!」ということもあるが、当然反動もある。私は大学生になって家を出るなり大勢でつつく鍋にすっかり魅了され、7〜9月の真夏以外は鍋をしたがる人間になった。
姉は大学の友人と朝マックを食べるからと母の朝食を断り、「栄養バランスも考えてある朝食が家にあるのに何故わざわざ外で偏ったものを食べるのか」の問いに対し「栄養価ではなく友人と共有する体験とその時間に価値を見出している。学生の今しかできない。私は朝マックを食べる」と返していた。この書いている3倍くらいの激しさで。いつも通りの朝食を食べながらその光景を見て「なるほどそういう食体験もあるのか」と思った。健康的な食習慣とコミュニケーションと青春の終わりの自覚。チャラそうに見せているが彼女は俯瞰していた。

ある時帰省したら母が昼にカップ麺を食べていた。
「忙しい昼はこれで十分」
ああ、彼女はとっくに娘全員を育て上げたのだ。

「果糖は怖いからね。ぶどうなんて3粒も食べたら糖の摂りすぎなんだから。はいどうぞ」
食べにくいよ!その5倍出しながら!?
夕食後に必ずフルーツを出す母、プレゼンは下手である。

eat it!

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